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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2023.05.01

大切な友人の結婚式があった。めでたいことだ。もう日記は書かないと過去に言ったけど、めでたいんだからいいじゃないかと今日くらいは言いたい。

その友人とは高校で出会った。入学後の合宿で、クラスの輪が出来る瞬間に完全に出遅れ、乗り切れずにいた自分と同じ中学の友達が二人で夜に話していたところに彼がやってきた。自由奔放天真爛漫を絵に描いたような彼は声が大きく、フットワークが軽かったから、すでにクラスメイトの多くとも仲良くなっていただろう。何を言われたかは忘れたけれど、通りかかったところで自分に声をかけてくれたことは覚えている。連絡先を交換した彼の電話帳に登録されていたおかっぱの外国人男性のアイコンの画像が面白くて、一人戻った部屋のベッドで笑ったことを覚えている。

少し経って、これまたなぜそうなったのかはあんまりよく思い出せないけれど、一緒にバンドをすることになった。自分がベースで彼がドラム。身体的センスが優れている彼はドラムをすぐに叩けるようになった。曲の構成が覚えられなかったり、スティックをよく落としたりしたけれど、声と同じように大きな音でドラムを鳴らせる人だった。それはすごいことだと思った。

 

5年制という少し歪な高校に通っていた我々は、3年生の当時、周りの友達が東京やらどこやらの大学へと進学することに焦りと羨望と寂しさを一緒くたに抱えていた。

帰り道、信濃川にかかる橋をまっすぐ渡って帰ればすぐなのに、示し合わせもせずふざけて遠回りをしては、それが日本一長い川であることなんて気にもせず土手沿いをいつまでも二人で並んで自転車をこいだ。

その時話していたのは「大学なんていく意味あんのかな」とか「みんな大学生になったら遊ぶんだろうな」とか「自分たちってずっとこんななのかなとか」とかそんなことばかり話していた。今思い返せばそれは『大人になるとは?』みたいな漠然とした不安に対する想いだったのだと思う。気づけばどちらの家からも遠く離れた場所まで辿り着いて、漠然とした問いにも当然のように答えは出ないまま、道を引き返して別れた。

そんな風にして時間は過ぎ、彼は自分よりも先に社会に出て働き始め生まれ育った土地を離れた。自分は学生モラトリアムを継続。より上京へのコンプレックスを強めることになるがそれは別の話なので割愛する。

学生時代を過ぎても、長期連休になれば故郷へ帰ってはまた同じように話した。乗り物が自転車から車に変わっても話すことは同じだった。社会的な記号に当てはめるならば、高校生当時の自分たちの思う『大人』にすっかりなっていた我々ではあったけれど、そんな自覚はなく顔を合わせればまた同じように漠然とした人生に対する想いやむずかしさのことを話した。ある時を境に誕生日にはお互いにプレゼントを送り合うようになった。友人の誕生日が近づいたら今年は何にしてやろうかと、相手が思ってもみないプレゼントを考えるのが楽しかった。

ある時に、長いこと交際していた恋人と結婚することを聞いた。そうか、と素直に嬉しかった。気がする。これは正直に言うとあまり覚えていない。わっと涙を流すほど私の心はしなやかではないし、特に結婚に関しては実感がない。お互いに結婚しようと思い合えるパートナーと巡り会えたことについては純粋に良いことだと思うけれど、それは彼と彼のパートナーに起きたことだから、私はそれをおめでとう、と思う気持ちになる。

 

結婚の招待と共に式では乾杯の挨拶を、というお願いをされた。何度か結婚式に出席して覚えている乾杯の挨拶のイメージというのは、比較的短尺の小気味の良い話をして最後に大きな声でかんぱーい!と促す。それくらいのものだ。ふーん、スピーチより簡単じゃん!と思ったものの、考え出すと話したいことは沢山出てくるし、長すぎるだとか場にそぐわなそうとか、個人的すぎるとか考えてしまって非常に難しかった。YouTubeとかで他人の結婚式での挨拶の動画を見てみると、世の中の人の多くは冗談を言ったり、上手いことを言ってみたりしていた。

一日、また一日と式の日が近づいて、今日考える。明日考える。と繰り返し、式の数日前にようやく言いたいことをまとめた。別に大したことを考えたわけではないけれど、何個か意識したことはあった。

世の中の、あくまで一つの視点としては『良い奥さんを見つけた/良い奥さんに恵まれた』みたいな表現がある。自分はそういう類のことを絶対に言いたくないと思った。パートナーは決してアイテムじゃないし、結婚式は到達点なんかじゃない、と私は思う。彼が彼なりに生きてきて出逢った人がいて、この日に至るまでには彼らの努力があって、そしてそれはこれからも続いていくのだ。私は結婚ということをやっぱりよくわからないけど、それはなんとなく想像できる。あとは誰のためでもなく、彼に語り掛けられる言葉にしようと思った。意識したのはそれだけ。

 

当日、挙式を迎えてチャペルを歩く彼は、すごく知っている顔なのに違う人みたいにも思えた。その日はそんな瞬間が何度かあった。それも当たり前なのだ。私が見てきた彼と、他の人が見てきた彼は違う。結婚するから、とかそういうことではなく彼の中にはいろんな彼がいて、そのうちの何パーセントかの部分で私と彼は親友なのだ。なんと誇らしいことだろうと思うし、見えない数パーセントだって愛おしい。それは親友に限らず恋人や家族に対してもそうだよな、とその時気付かされた。

 

結婚式で使いたいから、と私が持っているCDのいくつかを彼に手渡した。そのうちの一曲はBUMP OF CHICKENのアカシアという曲だった。並び歩くパートナーへの想いの曲だと自分は思っていたのでうってつけだなと思った。当日、流れるその曲を聴きながらこの曲は彼と彼のパートナーの曲でもあるし、彼と自分の歌でもあるなとも僭越ながら思った。思ったのだから仕方ない。CDを貸したのだから図々しくもそう思うことを許してほしい。

結婚式は到達点ではない、とは言ったけど多くの人の大事な想いの結晶みたいな時間と場ではある。それは素晴らしいことで、そこに立ち会えることはやっぱり嬉しいことなのだ。そうする選択があってもいいし、そうじゃなくてもいい。自分はどうしたいと思うんだろうか。まだわからないけれど、もしその時がきたら好きなようにしたい。それだけ。