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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.11.03(知らない道しか歩きたくない)

気まぐれに朝起きて近くを散歩したりした。セブンイレブンでたまごパンとアイスコーヒーを買って食べた。この2つを合わせるともう他に何もいらない、って気分になる。思いつくままに歩いてみた。最近ようやくこことここが繋がってるんだ!とかこっちに行くとあの駅の方面なんだ!って具合に自分の頭の中で地図が出来上がってきている。Google Mapに頼らない散歩というのにとても意味がある。自分の心のバイブル『急に具合が悪くなる』のなかに徒歩移動と輸送の根源的な意味の違いについて言及された部分があって、自分の歩みにとても大きな影響を与えている。以下、少し抜粋します。

つまり本来であれば運動とともに描かれていた軌跡が、点と点をつないでいるだけの無味乾燥な直線、つまり連結器と化すことを批判的にまなざすのです。

最もわかりやすいのは徒歩旅行と輸送の例でしょう。(略)

輸送とは、機会的手段を使用するかしないかではなく、徒歩旅行にみられる移動と知覚との親密な繋がりの消失によって区別される。

輸送される旅人は乗客となり、自分では動かず、場所から場所へと動かされる。

その通過の間に彼に近づいてくる風景や音や感覚は、彼を運ぶ動きに全く関係がない。

この本の中ではさらにこの関係を人間関係に置き換えて論を進めて行く。「関係」という「手段」で人と人とを連結してしまってはいないか。もっとわたしたち点は動けるのではないか、そしてそれは交差する線になり、線は面になっていくのではないか、と展開される。これを読んだ後に自分が思うのは、恋愛をしよう。例えば結婚を前提に。と思って始まる関係はとても歪な気がしてならない。そんな連結でしかわたしとあなたは結ばれないのかな、とちょっと損をした気分になってしまう。似た何かを少し前に読んだな、と思い出したのはceroの高城さんと折坂悠太さんの対談記事だった。

高城:でも、コロナ禍で、一緒にいる状態が普段よりぐっと増えて思ったけど、やっぱり根本として(自分たちは)友達だなとすごい思った。普通に「こいつ話が合うな。わかってんなー」みたいなことをパッと言ったりしてくれるわけよ(笑)。

もともと友達だったところから恋人になって、それから夫婦になって、それからお父さんお母さんになってという関係の変化が上書きでなく地層みたいに重なり続けていて、そのレイヤーを行ったり来たりするというのは可能なんだな、と。

夫婦として喧嘩してるときもあるけど、その下には友達として通じる部分がすごいある、みたいなことを感じられる瞬間ってあるじゃん?

折坂:わかります。親とか夫婦であることと友達であることの行ったり来たりみたいな振る舞い。

結婚というものがどんなものなのか、未だに実感もなければ想像も覚束ない自分にとってなんとなくこれらの言葉は希望(というと一気に安っぽくなるけれど)のように感じた。そうでいいんじゃん。みたいな。

やたら眠くてうとうとしながら本を読んだり、録画したテレビを見たりした。ニトリから届いた洗濯機周りの収納家具を組み立てたりした。部屋にいるとひたすら眠くなるだけなので歩いて少し遠くのドラッグストアまで行った。帰りにまいばすけっとで野菜を買って帰ってきて鍋を食べた。随分前に録画していたマツコ・有吉の怒り新党の最終回SPを見て笑った。異動先の職場はお盆休みがない代わりに11月が連休なので来週は丸々休みなのです。どうしてやろうかいの、と頭の隅で計画を立てている。