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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2023ベストムービー20 [1〜10]

 

10. ミッション・インポッシブル/デッド・レコニングPART ONE

IMFのエージェント、イーサン・ハントに、新たなミッションが課される。それは、全人類を脅かす新兵器を悪の手に渡る前に見つけ出すというものだった。しかし、そんなイーサンに、IMF所属以前の彼の過去を知るある男が迫り、世界各地で命を懸けた攻防を繰り広げることになる。今回のミッションはいかなる犠牲を払ってでも達成せねばならず、イーサンは仲間のためにも決断を迫られることになる。

トムクルーズが、イーサンハントが『必ず君を救う』と言う時、その君が指しているのはヒロインでも仲間でもなく、"映画"自体のことを言っているんだと思った。そうでなければ、こんなにも中身のない話が、身を挺したアクションと蒸気機関車の落下で最高に面白い映画になってしまう理由にならない。

映画を見ている最中は基本的に興奮と爆笑の連続でしかないんだけど、映画業界を取り巻く現実のことを考えると、今作の明確なヴィランがAIであることを考えると、最初に自分が言ったことが冗談でないことは奇しくも裏付けられてしまう。どうか無事に続編にして最終作が完成することを祈ってます。

 

 

 

 

9. ミュータントタートルズ ミュータント・パニック!

子供のころより人間から隠れて暮らしてきたタートルズたち。'普通のティーンエイジャー'として彼らが住むニューヨークのみんなに愛され受け入れられたいーその願いを叶えるため、新たな友人エイプリルの助けを得つつ謎の犯罪組織との戦いに繰り出す。そんな彼らの前に現れたのはミュータント化した敵の大群だった・・・

何者かになりたいティーンエイジムービーという主題と、グラフィックアートが動くアニメーションという手法の完璧な一致が巧すぎる。

という通り一辺倒な感想は置いておくとして、終盤に連なっていくニューヨーク最終決戦での展開を見ておれはけっこう涙してた。こういうことが映画で見たいんだよってまじで思った。辛くて凄惨な現実から目を逸らすことさえ許されないけれど、だからこそこういう映画に希望を感じたいじゃん。こうなってほしいよ、世界。まじで。

 

 

 

 

8. ザ・キラー

壊滅的なミスを犯した冷酷な殺し屋は、世界中から狙われる身となり、雇用主、そして自分自身との戦いを繰り広げていく。全ては決して個人的なものではないという想いを胸に―。

見終わって時間が経つほどにこの映画の面白味がじわじわ身体に染みてくる。倍速視聴する視聴者なんざハナから相手にしてない冒頭からのやっちゃったシーン、そこからラストまで途切れない展開と映画として楽しい瞬間で満たされてる。

とにかくスマホを捨てる映画だし、Amazonで暗殺のための動画を買ってマックを食べる映画でしかない。この暗殺行脚が行き着く最終地点がどこなのか、どんな結末を迎えるのかを併せて考えると、これらの要素に込められた痛烈な皮肉が浮かび上がる。

 

 

 

 

7. 君たちはどう生きるか

母親を火事で失った少年・眞人(まひと)は父の勝一とともに東京を離れ、「青鷺屋敷」と呼ばれる広大なお屋敷に引っ越してくる。亡き母の妹であり、新たな母親になった夏子に対して複雑な感情を抱き、転校先の学校でも孤立した日々を送る眞人。そんな彼の前にある日、鳥と人間の姿を行き来する不思議な青サギが現れる。その青サギに導かれ、眞人は生と死が渾然一体となった世界に迷い込んでいく。

2度見てもなかなか感想を書く気にはなれなかった。それは、どうしたって古くから連なる『宮崎駿』という文脈や『アニメーション』という表現の歴史みたいなことから作品を切り離せなかったからで、そういうものを書いてもつまらないと思ったから。それは自分が感じたことじゃない。
どれだけ誰かの解説や解釈を見たってほえぇ〜とは思っても腑には落ちない。

でも時間が経つほど、自分が好きなものや見てきたものをこの映画の横に並べて語ることも出来るように思えてきた。そんな風に考える程にこの映画がとても好きになった。

まずはおそらく自分の生涯の中でも大事な映画となるであろうスティーブン・スピルバーグ『フェイブルマンズ』との共鳴について。
"映画の真実と嘘"を完璧なショットと編集の連続で描いたあの映画のことを想うと、『君たちはどう生きるか』は"アニメの真実と嘘"についての映画として見ることができる。食について、女性観について、"アニメだから出来ること"への批判的な視座が印象に残る。それを意識的に描いてきたスタジオジブリだからこそ。

とはいえ最後には映像、アニメーションの感覚的な気持ちよさに終始していくので、あらゆることがどうでもよくなる。これはとても良い意味。その中で発せられる『ともだちを作ります』という強い宣言だけが揺るがなく残るし、自分が今年映画の中で聞いた言葉の中で一番強く残っている。

 

 

 

 

6. 北極百貨店のコンシェルジュさん

新⼈コンシェルジュとして秋乃が働き始めた「北極百貨店」は、来店されるお客様が全て動物という不思議な百貨店。⼀⼈前のコンシェルジュとなるべく、フロアマネージャーや先輩コンシェルジュに⾒守られながら⽇々奮闘する秋乃の前には、あらゆるお悩みを抱えたお客様が現れます。中でも<絶滅種>である“V.I.A”(ベリー・インポータント・アニマル)のお客様は⼀癖も⼆癖もある個性派ぞろい。⻑年連れ添う妻を喜ばせたいワライフクロウ⽗親に贈るプレゼントを探すウミベミンク恋⼈へのプロポーズに思い悩むニホンオオカミ・・・⾃分のため、誰かのため、様々な理由で「北極百貨店」を訪れるお客様の想いに寄り添うために、秋乃は今⽇も元気に店内を駆け回ります。

ほんとにほんとに良くてぼろぼろ泣いちゃった。寓話が持つ力を改めて感じた。誰かを傷付けながら生きているという人間が持つ原罪的な罪に向き合いながら、少しでも優しくあろうとする映画だと思った。そのためにまず何をするか。それは他者の目を見て、想像するということだと強く宣言している(と自分は思った)ことに強く共感したし、アニメーション、映画表現としてもその部分に力点を置いているのが本当に好きだった。

 

 

 

 

5. Spider-man:Across The Spider-Verse

ピーター・パーカー亡きあと、スパイダーマンを継承した⾼校⽣マイルス。共に戦ったグウェンと再会した彼は、様々なバースから選び抜かれたスパイダーマンたちが集う、マルチバースの中⼼へと辿り着く。そこでマイルスが⽬にした未来。それは、愛する⼈と世界を同時には救えないという、かつてのスパイダーマンたちが受け⼊れてきた<哀しき定め>だった。それでも両⽅を守り抜くと固く誓ったマイルスだが、その⼤きな決断が、やがてマルチバース全体を揺るがす最⼤の危機を引き起こす…。

映画が始まって数秒で前作とは違う語り口で、尚且つ前作よりもヤバいことをやろうとしてることが伝わる。伝わるとか以前に目に、脳に映像が飛び込んでくる。

ストリートカルチャーとサンプリングによるヒップホップムービーを象徴していた前作から、今作は何を象徴する映画に変わるのか。それを語るのは誰か。冒頭のシークエンスだけで自分はもう結構な勢いで涙してた。

最早あらゆる映画の個は個としては成立できず、続くシリーズの一部分でしかなくなってしまったり、「きみはひとりじゃない」「あらゆる可能性が秘められている」という手垢がつきまくったアナロジーで語られるマルチバース描写にも辟易としてしまっていたけれど、「きみの物語はきみにしか語れない」という姿勢を見たことのないアニメ表現をもってここで今一度提示することにめちゃくちゃグッときた。

なにより、人の過ちや業みたいなテーマを人の手でしか描けないアニメーションで表現する、主題と手法の一致にこそおれは感動してる。
劇中でマイルスがどれだけ孤独になったとしても、彼を描く無数の手は彼に手を差し伸べている。

続きものであることがこの作品の評価を下げる理由になっているのだとしたら、それにも待ったをかけたい。
確かにそうかもしれない。でもこの映画が果たして誰の語りから始まり、どのように綴じられるのかを考えれば、『Across the Spider-Verse』としては見事に円環を閉じているように自分は思った。

 

 

 

 

4. AIR

1984年、ナイキ本社。ソニー・ヴァッカロ(マット・デイモン)は、CEO であるフィル・ナイト(ベン・アフレック)からバスケットボール部門を立て直すよう言い渡される。業界の負け犬だったナイキチームは、無名の選手マイケル・ジョーダンを見つけ、今までのルールを変える一発逆転の賭けと取引に出るのだった・・・

非凡な才能への畏怖、しかしその才能を見逃さないこと、自分にすべきことをするというアイデンティティの映画だと改めて思った。
例えそれが自分の名ではなくても、絶対に未来に残すべきものがある。というのを映画で語るという姿勢。がとても好きだ。

 

 

 

 

3. ほつれる

綿子と夫・文則の関係は冷め切っていた。綿子は友人の紹介で知り合った木村とも頻繁に会うようになっていたが、あるとき木村は綿子の目の前で事故に遭い、帰らぬ人となってしまう。心の支えとなっていた木村の死を受け入れることができないまま、変わらない日常を過ごす綿子。揺れ動く心を抱え、木村との思い出の地をたどる...。

映画が始まって最初のカットから「わたし達はおとな」との連続性、その先を感じた。
とにかく人と人との距離が4:3の画面の中にあらゆる形で収められていたのが気持ちよかった。対面で向かい合う二人に奥行きを持たせたり、横並びだけれども向き合ってなかったり。

大抵嫌なやつに認定される人物との"楽しい時間"がちゃんと収まってるのがいいと思った。その人を無理だと思う瞬間と同じように、楽しかった時間だってあるはずだから。
それをちゃんと収められるのは、カメラや脚本ががちゃんと人物達との距離を意識しているからだと思う。
「結婚したら一人としかセックスしちゃいけないじゃないですか」という投げかけが何故か新鮮な響きで聞こえてきたのは自分だけだろうか。加えて、やはり乗り物の映画、車の映画でもあってそれがラストに繋がっていくのがとても良い。

 

 

 

 

2. Bones and All

生まれつき、人を喰べてしまう衝動をもった 18 歳のマレンは初めて、同じ秘密を抱えるリーという若者と出会う。人を喰べることに葛藤を抱えるマレンとリーは次第に惹かれ合うが、同族は喰わないと語る謎の男の存在が、二人を危険な逃避行へと加速させていくー

どんな筆を使っていてもルカ・グァダニーノが映画として描こうしているものは作家性としてそう大きくは変わらないし、その手腕は見るに明らかなので、だから良い。と言ってしまえばそれまで。
例えば挿入される景観のショットにしてもその編集のリズム感はこれ以外にないと思わされる。
"おしゃれ"みたいな言葉として回収されるにはあまりにも勿体無いもっと生理的な快感と言ってもいい。何を何処から撮るのか、画面に差す陽の当たり方、挿入される音楽のどれをとっても同じことが言える。つまらない言い方をすれば奇跡的な瞬間が当たり前みたいに連なっている。だから良い。やっぱりそれに尽きる。

これも当然のことで、人喰いである、マイノリティである、ということは要素と下敷きでしかない。
「愛情」ということばで丸め込まれた感情は当たり前に誰かのことを傷つける。そういう話だと思って自分はずっと観てた。だからそういう側面では自分の話でもある。
誰かとの関係なんて、どんな名前がつこうがつからなかろうが、裏切ったり裏切られたり、間違ったり傷つけられたりすることの連続なんじゃないかと思う。常にその可能性を孕んでることを思わずにはいられない。でも、だからこそ誰かと繋がったりすることからも目を逸らせない。自分はそう。わからない、からこそ見つめたい。
もう少し冷静に俯瞰するなら、冒頭から時折差し込まれるニュースの音声。良心に苛まれた者の自殺、銃規制。暴力は常に潜んでいる。

"におい"が象徴的に映画内では語られるけど、嗅覚を奪われる映画においてそれは視線に変換される。リーとマレンの邂逅、またはロードムービーの過程で遭遇する視線の数々。それは映画でしかなし得ない表現だと自分は信じてる。

孤独が故に有害化してしまう男性性についてもアレックス・ガーフィールドが『MEN』で2時間以上かけて映画にしたこと以上の豊かさとある種の魅力がこの映画の中には含まれていると思う。

 

 

 

 

1. フェイブルマンズ

初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマンは、母親から8ミリカメラをプレゼントされる。家族や仲間たちと過ごす日々のなか、人生の一瞬一瞬を探求し、夢を追い求めていくサミー。母親はそんな彼の夢を支えてくれるが、父親はその夢を単なる趣味としか見なさない。サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、さまざまな人々との出会いを通じて成長していく。

たまらず二日連続で二回見た。
話したいことは山のようにあれど、どれだけ言葉を尽くしても語りきれないので、「映画」が見たいと思うのであれば、できるだけ多くの人が見たほうがいい。
「映画」と呼ばれるだけの「映画じゃないもの」が乱立するなかで、これは間違いなく映画だと強く言える。

そんな触れ込みや、事前のあらすじ、"スピルバーグの自伝的映画"なんて前情報を目にしたら、所謂"映画愛"を謳った映画を想像したりだとか、はたまた映画に呪われた人間の狂気的な側面を描き出すものとイメージされてしまう気もするけれど(もちろんそういう描写がないではない)、そういうものとはレベルも次元も違う。

まとまらないから以下、箇条書き
・映画は真実を映し出すものだが、同時に嘘で出来たものでもある。ということに尽きる。自分は映画が抱えるその矛盾が好きなのだと改めて思った。

・冒頭から何をどう撮るかにおいてずっと正しすぎる。それは映像に意味を宿すというよりも、快楽のため。メタファーだの伏線だのうるせえ。見て気持ちいいかそうじゃないか。それだけだ。

・例えばオープニングのシーン。サミーの目線で左右に両親の脚だけが見えていて、順番に目線が下りてくる流れ。あれを引きで撮るわけがない。映画館を出てからの車内の切り返しも全部完璧。そりゃそう。スピルバーグだから。

・展開上そこまで重要ではない、見ていなくても問題ないシーンにこそ魅力は宿る。自分は竜巻を見にいくシーンと猿がやってくるシーンがめちゃくちゃ好き。前者は何度でも見返したいくらいすべてが良すぎる。これはまだ言語化できてない。

・起きてることは、人の生き死にとか地球の滅亡とかそういうことじゃないのに撮り方と切り返しだけでアクションがいちいち良い。奥行きのある家の廊下と学校での暴力シーン。

・映画内でも言及されることとして、スピルバーグは映画として美しいものを撮りたい、とその一点にプライオリティを置いているのだと改めて思った。もちろん物語に内包される想いはあれど、それは観客への正しさの教示なんかでは決してない。映画が正しさを語る必要なんてない。