anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.01.29〜31(ずっと正月とQOとうなげろりんとまーごめとくるまの娘)

ここ数日、良いカルチャーに触れすぎている気がする。怒涛のように"良さ"がなだれ込んできて動けない。でもそのままにもしておきたくない。ので日記の体を取りながらそれぞれのことについて書いてみる。

 

ダウ90000第3回本公演『ずっと正月』

f:id:moire_xxx:20220131225603j:image

気付いた時には既にチケットがなくなっていて行けないかぁと落胆していたけれど、かが屋の新ネタ巡業での2マン公演を観て、これは絶対単独見たい!という気持ちになっていた。そこからチケットのリセールを逐一確認する生活を続けていたら幸運にも行けることが出来た。まだ公演が続いているので内容には触れないけれど観終わった後、身体が面白さと感動でざわざわした感覚を覚えてる。こんな感じの世の中でも人で溢れる新宿の交差点をざわざわした身体のまますり抜けて電車に飛び込むまでの景色も覚えてる。

自分は演劇と呼ばれるものをこれまで一度も見たことがないのでそれについて語る術を持ってないなぁと痛感するのだけど、固定された舞台とその上を行き来する人たちは街の一角を捉えた固定のカメラだと思った。例えば自分がベッドの中で眠りについたそのときに街角で誰かが出会ったり別れたりしてるかもしれない。それを覗き見てる感覚。そんな興奮を見ながら感じた。同時にそれはその舞台の外、見えない部分の想像にも繋がった。この人ってこういう人なのかなとか、昔はこうだったのかな。とか。

これは内容とはまったく関係のない、見た後の自分の中の副次的な想いなので書くけど、ここ数年いわゆるコロナ禍と呼ばれる時間の中で季節の移ろいにとても疎くなったとよく思う。そりゃ暑くなったり、雪が降ったりすれば季節が変わっていることもわかるけど、お墓参りもなければお祭りもない(あんまり普段も行ってない)、季節に乗って起きる何かに出会わないような気がしている。そうすると不思議と時間が進んでいないように感じてくる。たしかに2年間時間は経っているのにその中身が他人事みたいに思えてくる。巡っているようで巡っていない。みたいなこと。『ずっと正月』はこの巡る、とその反対の留まる、みたいな瞬間を人の体を通して発する演劇でありコントだと思った。むちゃくちゃ良いので千秋楽の配信でもう一回見たい、

 

 

Aマッソ×KID FRESINO 2マンライブ『QO』

f:id:moire_xxx:20220131231400j:image

音楽とお笑いの競演はもしかしたら、というか多分過去にも色々あったのだろうけれど、両方の側面からひとつのものを表現するという意味でそれが為されてるものを自分は知らない。まだこんな表現の方法があったんだ…!と心底驚いて感動した。これについても、まだ残りの公演があるので内容についてはあまり触れられない。でもAマッソがいる時点でこのライブが、AマッソがAマッソとして漫才やコントを披露して、転換があって楽器が運び込まれてKID FRESINOがライブをしてMCで「Aマッソさん、面白かったですよね。僕らの音楽も聞いてください。」なんて話すような生ぬるい2マンな訳がないことは容易に想像できる。言うなればこのライブは、コント!キッドフレシノのライブ〜!と言って始まる90分のコントと言っても良いし、フレシノのライブのセットリストの中にAマッソのコントが組み込まれたステージと言ってもいい。まじで何言ってるかわかんないですよね。でもまじでそうなんですよ。

その構成の妙にも驚かされながら、全体が「KID FRESINOというラッパーとは?」と「Aマッソという芸人とは?」という像を追う内容になっているのもむちゃくちゃ良い。特に本編終盤で判明する、そういうことだったのね〜!からのある演出があって披露される曲がまじで泣けるのです。これも配信があるので全国民が見るべき。

 

 

マユリカのうなげろりん!!

f:id:moire_xxx:20220131233140j:image

ラジオ関西でオンエアされている『マユリカのうなされながら見た夢の後で!』が予算の縮小で年4回の放送になったことが発端としてスタートしたPodcastオリジナル番組。すみさんに勧められて初回から聴き始めてリアルタイムに追いついてしまいました。とにかくキモくて最高。何はなくとも中谷さんの文字では形容し難いほどにキモい笑い声(しいて表すとしたら、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ)がまじで最高でそれだけでも聞いてられる。

Podcastという形態というのもあってか、リスナーとのメールを通した交流もほぼないし、不快になるキツイ下ネタもない。いわゆるルサンチマン的なノリもまったくないのってけっこう不思議に思う。番組だけで発生するリスナーとパーソナリティーのエモーショナル(風)の連帯ってけっこう自分は苦手で、さらにそれに輝かなかった過去を見返してやろうぜ的なルサンチマンが乗っかってくると、自分が聞くもんじゃないなぁと思ってしまうのだけど、そういうものが微塵もないのがいい。ただただキモい2人の立ち話になのがやっぱりむちゃくちゃ良い。

聞いていると、マユリカ特有の怠惰がこの空気感を生んでいるのは?と思ったりもする。中谷さんが度重なる遅刻で謹慎処分を食らったり、M-1用にネタ叩くのも猛烈に嫌って3分ネタが出来れば十分と言ったり、コロナ禍の自宅待機中にネタ書くのなんて意味わからん、みたいないわゆる賞レースに向けたエモさみたいな枠からは明らかにはみ出てる。それなのに2021年M-1あれだけマユリカが面白かったことは多くの人の脳裏に強く焼き付いているはず。けっこうこの"どうでもいい"的なスタンスが割と自分的には心地良かったりする。脱線だけどそれはニューヨークとかに感じたりすること。

特に自分が好きな回は、人が笑顔になったときの音が聞ける唯一の音源の#5

阪本さんの誕生日プレゼントをひたすらプレゼンするもまったく受け入れられない#19、#20も腹ちぎれるほど笑った。

小僧解体新書もとても良いし、中谷さんの母親の声真似もめちゃくちゃ良い。普通に高校生のブログが当時2万アクセスされてるのは凄いぞ。

 

 

宇佐見りん『くるまの娘』

f:id:moire_xxx:20220131235229j:image

文藝春季号に掲載された宇佐見りんの長編3作目。前作の『推し、燃ゆ』と同じく女子高生の目線で「家族」の歪さが切り取られる。これが個人を縛る悪しき象徴として「家族」が描かれるとしたら、それってかなり既視感のある表現だけど、無論そんなところに収まらない話に物語がドライブ(車!)していくのが面白い。

そう、銘打たれてる通り"くるま"の話なんだよね。でも主人公は高校生で車の免許を持っていない。決して自分でハンドルを持って車を動かすことはできない。そのアンコントロールな面と外部から断絶されるという面で車と家族が接続される。ではその"くるま"はどこに向かっていくのだろう。

または、車の内側から見える景色と、ドアを開けて外から見た車という両面性みたいなところにも注目したい。いつ暴走するかもわからない鉄の塊が町の中を走るなんて、ともすればとても狂気じみてないか。その安全性ってどこで、だれによって保たれているのか。みたいなところにも及んでいるように思った。物語の凄いところは、今まで何気ないと思っていた景色がまったく違う意味を持って見える瞬間があるということだと読んだ後に改めて強く思ったりした。

 

 

『劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ』

f:id:moire_xxx:20220131235056p:image

お笑いコンビ・ママタルトの大鶴肥満がことあるごとに発する『まーごめ(まーちゃんごめんねの略)』とは一体何なのか、に迫るドキュメンタリー。と同時にそれは「大鶴肥満」という体重180キロの内容物に迫るドキュメンタリーになっていて、彼の生い立ち、家族との関係、恋愛事情、学生時代の過去、芸人を目指し今に至るまで、を深く掘り下げる内容だった。いや、むちゃくちゃ笑えるんですよ。笑えるんだけど、彼と家族の関係についてのシークエンスは、一個前にあげた『くるまの娘』とそう変わらないことを自分は思ったりした。公式に配信映像のキャプチャOKとされていたので、印象に残った場面をひたすらキャプチャしたのだけどこのシーンの言葉がどんな経緯で発されたのかめっちゃ見てほしい。実家周辺がむちゃくちゃモザイクなのも真空ジェシカ川北さんにツッコまれてて笑える。あ、これも配信あって2/6まで見れるのでぜひ。

f:id:moire_xxx:20220201001501p:image

f:id:moire_xxx:20220201001413p:image

人を笑わせるってなんなのか、笑われるってなんなのか。大鶴肥満というほとんど他人の名前を冠した芸名と、その陽性のキャラクターの中にある空虚さと陰。こんな書き方をすると、それこそルサンチマン的でエモさみたいな方向に走り出しそうだけど、180キロの中身はそんな単純なもんだけじゃない。相方の檜原さん含めてママタルトという存在がめちゃくちゃ立体的になるドキュメンタリーとしてめちゃくちゃ質が高い映像で超食らっちゃった。まじでまーごめ。

f:id:moire_xxx:20220201002526p:image