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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2020.08.08

 先週末ごろ、急に奥歯が痛くなった。お昼過ぎ、夕方手前の、まだまだうだるような暑さが残る時間だった。それはなんの前触れもなく突然やってきた。痛い…。意識を逸らそうにもこれは自覚せざるを得ない。鈍い重みを持った痛みが奥歯にのしかかる。あほみたいに鏡の前で口を開くと奥歯の周りの歯茎が異様に腫れているのがわかる。そのためか、唾を飲み込むたびに腫れた箇所が動き、とても痛い。

 帰り道、駅を降りるとマクドナルドの前に「どこでもハワイ!」という陽気な看板が見えたので何を思ったかチーズロコモコバーガーを買った。買いながら自分はこんなもん食べれるんだっけという疑問は1mmもなかった。帰って一人、咽び泣きながらマックのポテトを食べた。人生ではじめての経験だった。どうやらこれは放っておけないやつだ、とロキソニンを飲んでから考える。このまま放置するから世の中には歯のない人たちがいっぱいいるんだ。ちゃんとするぞ、と意気込む。次の日、目覚めるもやっぱり痛い。からっぽの胃にロキソニンを投入するのは流石に怖いので午前中は我慢しつつ仕事をする。会社の食堂のコロッケそばを涙目になりながら食べて、薬を飲んで痛みから解放される。一度だけ歯のクリーニングに行った歯医者を予約しようとするも3日後まで空きがないという。仕方なく最短の日程で予約するもこのまま痛みが続いたら流石につらい。会社に程近いところを探して一応電話すると当日中に診てもらえるとのことでその日は30分早退して向かう。向かう道すがら、昼に同僚と話したことを思い出す。虫歯でそこまでの痛みで、なおかつ歯茎が腫れてるとなると相当痛い治療を覚悟したほうがいい。神経を削られるか万に一つは抜歯もあるかも、と脅されて恐怖に震えていた。自慢じゃないけれどもう10年以上虫歯の治療なんてしてない。乳歯時代はよく虫歯になって、詰め物をしてはキャラメルやハイチュウでダメにして怒られた。

 歯が痛いエピソードで思い出すのは、学生時代に友人と新潟から高速バスで都内に来た時のこと。美味しいラーメンでも食うべ!と調べて行ったラーメン屋さんでラーメンを食べてる最中、友人はずっと怪訝な表情で口数も少なくラーメンをもそもそ食べていた。何とか一杯を食べ終わるかというくらいで店を出るも、まだ表情は浮かない。じっと黙り込んでいる。しばらくして「歯が、痛い。」と言った。どうにも我慢ならんらしい。近くの薬局を探す。たしかあれは池袋のヤマダ電機地下の隅っこの薬局だった。「歯の痛みに効く薬をください」と言って渡されたのは『今治水』という薬だった。その名前のあまりの安直さと得体の知れなさ(今調べれば普通に有名な薬だった。)に笑った記憶がある。付属の綿を今治水に浸けて患部に詰めるという、これまたなんとも直接的な方法の治療なのだけど、綿を詰めてものの数秒で痛みが引いたと友人は言った。まさかと思うもその表情は晴れやかで、ラーメン屋さんを出た時のこの世の終わりの顔はもう消し飛んでいる。いや、それはもう麻酔のレベルじゃん。と笑った記憶が強烈に残っている。

 そんな記憶を思い出しながら歯医者に着いて問診を済ませると、診察室に案内され患部を覗かれる。まずは、とレントゲンを撮って歯の断面が並んだ写真を見る。結論から言うと虫歯はひとつもなかった。どうやら立派な親知らずが地上に出るのを今か今かと待ちわびているらしく(それも左右上下に4本しっかり)奥歯と親知らず予備軍の間の汚れから歯茎が炎症を起こしたらしい。ちゃんと治療すれば数日のうちに腫れは引くとのことで安心した。しかし、事によっては親知らずを抜く日が来るかもしれないと伝えられるが、もう自分は虫歯がないことに安心しきって、「親知らずが生えてきたよー」とチャットモンチーを脳内で再生する。帰省の時期に思い出すにはあまりにエモーショナルがすぎる曲。

 歯医者を出た帰り道、結果には安心したものの痛み止めを飲んでなければ痛いことには痛い。悲劇はくりかえすまい、とマクドナルドは素通りしてそうめんを茹でた。しかしだ、痛み止めを飲むには胃に何か入れなきゃいけない。前日からロキソニン漬けで確かに胃を痛めてる気がする。でも食べる動作はひたすら痛くて咽び泣いてしまう。これは一体どうしたらいいのやら、と混乱する。ちょっと食べてから飲む?とか考えた末に「食べる」を優先することを選んだ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、そうめんをはむはむして1時間くらいかけて食べきって薬を飲んだ。つら。口周りを痛めることが一番つらい。食と直結しちゃうのは地獄だ。

 2日経った今、すっかり痛みは引いた。腫れもだいぶと収まって、さっき歯を磨いていたら大量の血が出た。藤原基央が言うところの「真紅の血が輝いて君は生きてると教えてる」とはこのことかと思った。どうやら自分はちゃんと生きてる。らしい。