anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.08.23(ちくわみたいなコーギーのおしり)

世界の終わりみたいな暗がりの時間があった。黒い雲が空一面を覆って遠くで雷が鳴っていてそのくせ静かだった。朝9時のことだった。少し経つとばっちゃばっちゃと雨が降り始めた。静かでいられるよりはちょっとだけ安心した。ひとしきり降ると、何事もなかったように晴れ間が見えた。どうかしてる。少し遅れて出勤した。靴を見たら泥がついていた。あの場所でついた泥で、洗って落としてしまったらそれで終わるような気がしてそのまま履いて出てしまった。自宅で受けられるPCR検査のキットを予約した。これが自分の最低限の責任のような気がした。楽しかったけど、やっぱり楽しかったことだけで終わらせるのは違う気がした。出勤するのだって本当はもっと良く考えなきゃいけないことだったとも思う。それでもやっぱり行かなきゃ仕事にはならなくて雨が降った後の匂いをかぎながら外を歩いた。

なぜか、くるりのばらの花ってあんまり好きじゃなかった。得体が知れないのにみんなが好きなくるりの代表曲みたいになってるのに何か違和感があった。それはTEAM ROCKというアルバム全体にも感じる気持ちだった。やっぱり自分はWORLD IS MINEなんだよ…!とひとりずっと思っていた記憶しかない。でも、数日前にあの場所でばらの花のイントロが鳴ったとき、自分でもよくわからない気持ちになって何故かじわっと涙が出た。やっぱりこの曲は得体が知れない。改めて歌詞をまじまじと読んだ。サビにあたる「安心な僕らは旅に出ようぜ/思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」のところだけ明らかにナレーターが別人な気がする。心情があまりに乖離してる。でも、会えない→ほっとするという気持ちの乖離のことは自分も知っている気がする。誰かに逢おうとするときでも、何かを選んだ時でも、口実として不可抗力的なことが起きた時にほっとしてしまうことは何度となくある。そういうときって安心と同時に巨大な虚しい気持ちでちょっとずつ澱んでいく感じがする。また人にちゃんと向き合えなかったって罪悪感で胸がいっぱいになる。炭酸の抜けていないジンジャエールを買い直したときにこの人は何かに気付いたんじゃないだろうか。もしくは気付いたから買い直したのかもしれない。同時に目を逸らしてた自分の胸の痛みにも気付く。だからこそ冒頭から変わらないフレーズでループする「安心な僕らは旅に出ようぜ/思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」の意味が後半でぐっと変わってくるな、ということを今更ながら思った。

帰り道、ぷりぷりしたお尻を振って歩いているくびれのないコーギーを見た。白石和彌の狐狼の血を見返している。

 

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