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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021年ベストムービー30 [1〜10]

10. ザ・スーサイド・スクワッド

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ジョーカーと別れて彼氏募集中の身になり、ますますクレイジーになったハーレイ・クインを筆頭に、最強スナイパーのブラッドスポート、虹色のスーツに身を包んだ陰キャポルカドットマン、平和のためには暴力もいとわないという矛盾な生き様のピース・メイカー、ネズミを操って戦うラットキャッチャー2、そして食欲以外に興味のないキング・シャークという、いずれも強烈な個性をもった悪党たちが、減刑と引き換えに、危険な独裁国家から世界を救うという決死のミッションに挑む。

これが別の監督の映画なら、頻出する"鳥"や"ネズミ"のモチーフは空と地上(もしくは地下)という上下の関係をイメージさせるだけのものにすぎないけれど、この映画を撮ったのは他の誰でもないジェームズ・ガンその人だ。

だとすると、次々人が無惨に死んでいくこの映画の中で一番最初に血を流すのが"鳥"であることからはTwitterに対する想いを想像してしまうし、中盤から後半にかけて重要な役割を担いつつ、如何にして付き合っていくかを提示していく"ネズミ"からはDisneyを想像してしまう。
怪獣として登場するスターロは巨大な眼で街を監視し、多くの人を洗脳する。ここから何を想像するかは2021年現在の現実を見れば言うまでもない。

それだけ、このスーサイド・スクワッドジェームズ・ガンの個人的な映画として色濃く描かれている。
そしてそれが自分に関係ないことかと言うと全くそうではない。頭を空っぽにしてとか、何も考えずに、とかそんな楽しみ方は到底出来ない。

しかし最初に触れた通り、この映画は終始上にあるものが下に落ちていく映画でもある。
だからこそ「下からしか見えないもの」を見せていく映画でもある。生きる価値のない人なんていないし、過ちを償えない人なんていない。許すことができないなんて、そんなに悲しいことはないんだから。
たった一言だけあるタイカ・ワイティティの台詞を多くの人が受け止めることが出来ればきっともっと良い方に世界は向かっていくはずだと信じたい。

 

 

9. 花束みたいな恋をした

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東京・京王線明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦<やまねむぎ>(菅田将暉)と八谷絹<はちやきぬ>(有村架純)。 好きな音楽や映画がほとんど同じで、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店してもスマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが──。

掬い上げた水はたいせつにしようとすればするほど溢れ落ちてしまう。
純然たる恋愛映画でありながら自分は「人とカルチャー」についての映画にも見えた。
押井守に始まり、夥しいほど連発される音楽、映画、文学、等のカルチャーによって二人の心を通わせた果てに、あんな台詞を吐かせてしまうなんて。(パズドラのくだり)
とても残酷だ。でもこれが人とカルチャーのひとつの終着点であるのは、私たちの身の回りを見渡せば否定できない。
恋が終わっていくようにやはり人はいつか音楽からも映画からも離れてしまうんだろうか。変化する社会に対応するために、あるいは生活を見つめる代償として、その手からカルチャーは溢れ落ちてしまうんだろうか。
しかし、この映画は振り返った過去や取りこぼされたものを必要以上に愛でることも腫れ物として扱うこともしない。決してエモいなんて空っぽな言葉に逃げようとはしない。
そこに二人がいた、という記憶と形跡がただ残り続けるという不思議な温度感と距離感で捉え続ける。他の映画やドラマからは感じたことのない不思議な感触である、ということがひたすら特異。
とはいえ、ラストのファミレスでのシーンではカットバックとピントと位置関係でもって猛烈に感情をかきむしるのもさすが。あの位置関係だと絹は目を逸らさずに前を見ないと、麦は後ろを振り返らないとあの二人を見ることはできないんですよね。

 

 

8. 最後の決闘裁判

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中世フランス──騎⼠の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、⽬撃者もいない。真実の⾏⽅は、夫と被告による⽣死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き──勝者は正義と栄光を⼿に⼊れ、敗者はたとえ決闘で命拾いしても罪⼈として死罪になる。そして、もしも夫が負ければ、マルグリットまでもが偽証の罪で⽕あぶりの刑を受けるのだ。果たして、裁かれるべきは誰なのか?あなたが、この裁判の証⼈となる。

とても意義深い一作だけに、これをtoxic masculinityへの自己批判だけに留めるのはちょっと勿体ないような気もする。
無論、13世紀から700年経とうが性暴力に関する認識がちっとも改められない現状がある限り、これは何度も繰り返し考えるべきテーマではある。未だに腐ったこと言うどうしようもない奴等や、まだまだ認識の甘い自分含め、どんなセクシャリティであれ全員。
主題から少し距離をとって「馬」について考えたい。今作において決して軽やかには描かれない馬のその体躯の重力感よ。
鎧や剣や槍の重さよりも、その獣としての獰猛さと男根主義が結びつくその瞬間こそ自分は新鮮だと思った。途中、盛りのついた馬が雌馬を襲う瞬間があるのがあまりに象徴的。カルージュがそれぞれをどう対処するのか、という描き方も同様。

 

7. アメリカン・ユートピア

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元「トーキング・ヘッズ」のフロントマンでグラミー賞受賞アーティストのデビッド・バーンが2018年に発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」を原案に作られたブロードウェイのショーを、「ブラック・クランズマン」のスパイク・リー監督が映画として再構築。同アルバムから5曲、トーキング・ヘッズ時代の9曲など、全21曲を披露。バーンは様々な国籍を持つ11人のミュージシャンやダンサーとともに舞台の上を縦横無尽に動き回り、ショーを通じて現代の様々な問題について問いかける。

身体への愛で溢れてた。動く身体、動いてしまう身体。
その「からだ」から見えない繋がりの映画になっていくのに恐ろしさすら覚える。楽器のコードレスは線を見えなくするけれど確かにあなたとわたしの距離を近づける。年齢もあまつさえ性別も国籍も関係ない。
旅の途中だからこそいつだって人は変われる(変わろうとすることができる)し、だれかと繋がることができる。

 

 

6. 空白

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全てのはじまりは、よくあるティーンの万引き未遂事件。スーパーの化粧品売り場で万引き現場を店主に見られ逃走した女子中学生、彼女は国道に出た途端、乗用車とトラックに轢かれ死亡してしまった。 女子中学生の父親は「娘が万引きをするわけがない」と信じ、疑念をエスカレートさせ、事故に関わった人々を追い詰める。一方、事故のきっかけを作ったスーパーの店主、車ではねた女性ドライバーは、父親の圧力にも増して、加熱するワイドショー報道によって、混乱と自己否定に追い込まれていく。 真相はどこにあるのかー?少女の母親、学校の担任や父親の職場も巻き込んで、この事件に関わる人々の疑念を増幅させ、事態は思いもよらない結末へと展開することにー。

誰が善いとか誰が悪いとか、ほんっとうにどうでもいい。他人のすべてなんてわかるわけがない。
映画内でカメラが執拗に誰かの背中を追うように、わたしたちは誰かの一面ずつしか見ることができない。
自分は映画の中で、理不尽に誰かの命が奪われてしまうことや誰かが一方的に辱められてしまうことについては、映画の中であっても本当にそうするべきだったのかと考えてしまう。
もちろんこの作品の中にもそれを感じる部分もあった。本当に彼女たちは人生の幕を下ろす必要があったのかと。
誰かが死んだ、だから失った人はこうなった。悲しい事件が起こった。だからこの人は人生を見つめ直した。それでは結果ありきで誰かの命が奪われている気がしてならない。それが何より辛い。
でも『空白』はその順接の外側から、"それでも"これがある。というところに向かっていく映画だと思う。そもそもこの映画は変化なんて描こうとすらしてないと思う。文法的にこれが順接とどう違うのかは個人的な感覚ではある。
順接で結びきれない事象の中で正論や真実はまったく意味を成さない。
善意も悪意もあらゆるところで循環してくなかで「お弁当、美味しかったです」という自分が吐いた言葉に絶望する時もあれば同じ言葉に救われることもあるということ。
それが編集においても表現されていて、偽善者と罵られた草加部さんが浜辺を掃除していたシーンから、網の中の空き瓶で添田が手を切るシーンへと繋がる。対立する二つは緩く、でも確実に繋がっている。
こんな安い言い方したかないけど、その繋がりこそすべてなんじゃないかと思う。
とりあえず今はちりとりの中に掃かれたカレーとそのときに彼女が流した涙のことだけを考えたい。

 

 

5. 夏時間

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10代の少女オクジュと弟ドンジュは、父親が事業に失敗したため、大きな庭のある祖父の家に引っ越して来る。しかし、そこに母親の姿はなかった。弟はすぐに新しい環境に馴染むが、オクジュはどこか居心地の悪さを感じる。さらに離婚寸前の叔母までやって来て、ひとつ屋根の下で3世代が暮らすことに。それはオクジュにとって、自分と家族との在り方を初めて意識するひと夏の始まりだった。

プロットを文字にしたらとてもありふれた話なのに、実際に映ってるものがそれを越えて圧倒的に強い。自分にはこれをすごいとか深いとかよりも強いとしか表現できない。
(体感として)全体の4割強くらいを食事シーンと睡眠シーンが占めているのではないだろうか。
特に、父親が祖父が眠るのを見つめてから息子のドンジュを夏休みなのに学校の時間だと嘘をついて起こすまでのシーン。後からそれらしき説明がされるものの、行動の前の一瞥でそれを想像させるだけの強度がある。
オクジュが寝ていると音楽が聴こえてきて、階段を降りると祖父が微笑みながら一人音楽を聴いているシーン。それを見つめて再び階段を上がっていくかと思いきや途中で座り込むシーンも、何故かはわからないけど胸を掻き立てられる力がある。
この階段の上り下りやオクジュが寝室に広げる蚊帳、盗んでプレゼントした偽物の靴からは、やはり大人と子供の間で揺れるオクジュの心情が…とかそんなことやっぱり言葉にしてしまうととても陳腐にも思えてしまうんだよなあ。
ひとつの家で暮らす3世代も誰もが片方の両親を欠いていて、あくまで2組の"きょうだい"になっているのもポイント。時間が読めない夜の暗闇から一気に真っ白なシーンにジャンプする編集も常にハッとさせられる。微睡は唐突に終わりを告げる。

 

 

4. ひらいて

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高校3年生の愛(山田杏奈)は、成績優秀、明るくて校内では人気者。そんな彼女は、同じクラスの“たとえ”にずっと片思いをしている。彼はクラスでも目立たず、教室でもひっそりと過ごす地味なタイプの男子。だが寡黙さの中にある聡明さと、どことなく謎めいた影を持つたとえに、愛はずっと惹かれていた。自分だけが彼の魅力を知っていると思っていた。しかし、彼が学校で誰かからの手紙を大事そうに読んでいる姿を偶然見てしまった事で事態は一変する。「たとえに、恋人がいるのではないかー」その疑惑がぬぐいきれず、愛はある夜、悪友たちと学校に忍び込み、その手紙を盗んでしまう。手紙の差出人は、糖尿病の持病を抱える地味な少女・美雪。その時、愛は、初めてふたりが密かに付き合っていることを知るのだった。それが病気がちで目立たない美雪(芋生悠)だとわかった時、いいようのない悔しさと心が張り裂けそうな想いが彼女を動かしたー。「もう、爆発しそうー」愛は美雪に近づいていく。誰も、想像しなかったカタチで・・・。

見てるうちに身体が溶けていてザワザワしてる感情だけが座席に残ってるような、そんな気分になった。凄すぎる。あまりに良すぎる。
2010年代に山戸結希が全国のシネコンのスクリーンに『溺れるナイフ』を映し出したその流れの先にある次の大きな山がここ。間違いない。
今年、他のどんな映画を見てなくたってこの映画を見ない手はない。
校舎の暗闇を照らすのはiPhoneのライトだし、沈黙を破り朝を告げるのもまたiPhoneのアラーム音だし、LINEのなりすましが物語を動かす。しかしその反対に、手紙や自転車といった映画の古典的要素が効果的に配置されてるのも良い。
トマトジュースからの血の赤、ファンタグレープからのあの展開という、色が常に何かを予感させるように点在してることとか、その中心にあるピンクがどこに在るのかにも注目したい。
とはいえ、何より山田杏奈さんと芋生悠さんの完全にキャリアハイの演技よ。もうあの二人じゃなきゃありえない。見方によってはセクシャリティを消費してるだけでは?みたいな物言いも考えられなくはないけど、これはもっともっと根源的な人が人に心を『ひらく』までの話だと思う。
だからこそラストのあの身体の躍動と発される一言に心底胸を震わされる。見事。

 

 

3. イン・ザ・ハイツ

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ワシントン・ハイツ――そこはNYの片隅にある取り残された街。祖国を遠く離れた住民たちで賑わう大通りはいつも、歌とダンスであふれている!暑さが激しい真夏に起こった大停電。その夜、仕事や進学、恋にもがきながら、夢に踏み出そうとする4人の若者の運命が、大きく動き出す――。

自分が映画のなかに見たいものが全部入ってた。
身体的躍動と知恵と連帯と嘘と希望と予感。これがあれば良い。というかこれしかないと思っちゃう。
移民で構成され地価高騰の進みつつあるワシントンハイツから切り取ったアメリカ。しかもそれをミュージカルという形式で切り取る、というだけでも語り甲斐があるのに音楽での表現(単純なR&Bサルサではなく各々がミックスされ昇華された超高水準の曲たち、なおかつポップスであるということの凄さ)、衣装での表現(ラストにバネッサが辿り着く、これぞ!なアイデア)でも完全に現代の、次世代の表現としてのミュージカルになっている。凄すぎる。本当に凄すぎる。冗談抜きに、世界的な興行という面でもトップに立つべき映画だと思う。わりとガラガラな映画館で思った。ひたすらタイミングが悔やまれる。
また移民の中での世代の違いによる異なる視座を描いているのにも注目したい。一世が持っていた夢と味わった苦痛。二世の閉塞感と自由。そしてその先の世代にのしかかる負の遺産と、まだ見ぬ希望。この映画のラストカットが誰のどんな目線で終わっていくのか、どうか多くの人にその目で見てほしい。ここから世界は変わっていくと自分も信じたい。

 

 

2. Don't Look Up

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天文学専攻のランドール・ミンディ博士(演:レオナルド・ディカプリオ)は、落ちこぼれ気味の天文学者。ある日、教え子の大学院生ケイト(演:ジェニファー・ローレンス)とともに地球衝突の恐れがある巨大彗星の存在を発見し、世界中の人々に迫りくる危機を知らせるべく奔走することに。仲間の協力も得て、オーリアン大統領(演:メリル・ストリープ)と、彼女の息子であり補佐官のジェイソン(演:ジョナ・ヒル)と対面したり、陽気な司会者ブリー(演:ケイト・ブランシェット)によるテレビ番組出演のチャンスにも恵まれ、熱心に訴えかけますが、相手にしてもらえないばかりか、事態は思わぬ方向へー。果たして2人は手遅れになる前に彗星衝突の危機から地球を救うことが出来るのでしょうか!?

地球に隕石が降ってくる夜、みんなでご飯を作って一緒に食べた。楽しかった日のことを思い出して、みんなで笑って話した。少しだけ悲しかったけど、みんな笑ってた。
めちゃくちゃ笑って、最後はどうしようもない気持ちになって、ちょっと涙ぐんだ。映画館にいるみんな多分そうだった。
そういう「声」の映画だと思った。声の大きさや、声の影響力が支配する磁場のようなものから抜け出すにはどうしたらいいのか。抜け出した先には何があるのか。
世界の終わりを美しいと思ってしまうことこそ人間の原罪みたいなもので、そこに人間のどうしようもなさと、でも同時にそれこそが人間の魅力なんだとも思ってしまう。
まじで地球は一回滅んだほうがいい。でもいつだって人間は、生きてるものは最高。それでいい。
悪いこと言わないから小ちゃいスマホの画面とかしょぼいテレビの音なんかじゃなくて映画館で見ることをおすすめします。

 

1. プロミシング・ヤング・ウーマン

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キャシー(キャリー・マリガン)は【明るい未来が約束された若い女性(プロミシング・ヤング・ウーマン)】だと誰もが信じて疑わなかった。ある不可解な事件によって不意にその有望な前途を奪われるまでは。平凡な生活を送っているかに見えるキャシーだったが、実はとてつもなく頭がキレて、クレバーで、皆の知らない“もうひとつの顔”を持っていた。夜ごと出掛ける彼女の謎の行動の、その裏には果たして一体何が――?

今作とか、昨年で言うと『WAVES』とかを見たときにも思ったことだけど、自分がどんなに性差に声をあげてみても、自分が性別としての男性を自認している限りはやっぱり自分も男性であることからは逃れられない。
自分の根底にも無意識にこういう思考が生まれかねないとか、身体的な圧とか、無意識な目線とか、男友達との間にどうしても生まれてしまうホモソーシャルな会話とか、自分も結局同じじゃんってことに向き合わざるを得ない。自分がどんなに考えて意識しても変わらない現状とか、ひいては自分もその中の一部でしかないというどうしようもない事実にも腹が立つ。無力感を感じてしまう。これが正直な気持ち。
だから、今作で描かれる男性像が露悪的だとは自分は思わない。きっと観客として見ている男性みんなが登場する人物をみて居心地が悪くなるはずだから。それでも違うというなら、それは狭い視野と想像力の問題だと思う。

今作の作品的意義やいわゆるメッセージについては何も異論がないけど、それだけで終わりにするのも勿体ないのでこの映画の形式的な部分ともっと根本的な部分についていくつか。

・赤と明暗
観賞後、強く脳裏に焼き付く色はやはり「赤」だ。作品のモチーフ的にも常套手段なら赤と「血」を結びつけてしまいそうだが、この映画に血は流れない。冒頭での血かと思わせて…からかなり意識的。しかしどの場面でもあらゆる赤が様々なモノに配置され連鎖しているのが気持ちいい。
血が流れないことと同義として、「映さない」ことにもかなり意識的なことも書いておきたい。あの映像や、終盤のシーンも映さないことで想像を促す。悲惨な場面を映像にすることも出来るけど、想像させる方がダメージが大きいことを作り手は知っている。
中盤あたりで自室で液晶を眺めるキャシーの顔が照らされ、また暗闇に包まれるシーンもかなり印象的。その光源がPCのスライドショーの明滅だということに気付いたときに語りきれないキャシーとニーナの関係が浮かんでくる。

・天使と名前
同じく自室のベッドの前に座るシーン。彼女のベッドシーンは羽根を模したデザインになっておりその前に彼女が座ることで、まるで彼女の背中に羽根が生えているように見える。
他にも部屋のインテリアなどにも随所に天使を思わせるものが配置されている。
本当に彼女は単なる「復讐者」なのだろうか。
果たして罰を与えることは復讐にしかならないのだろうか。
彼女は私の名前を知っているか、彼女の名前を覚えているか?と聞いて周る。同じように決着をつけた男たちの名前もノートにつけて記録する。
古く、悪魔や呪いを祓う方法としてその名前を呼ぶという手法があるということを思い出した。
過去に示談を幇助した弁護士に向かって彼女は「眠りなさい」と言ったことを思い出してほしい。または最後にライアンに送られたメッセージを思い出してほしい。
彼女の根底には、もっと言えば作り手の根底には「終わらせる」ためよりも「始めるため」の想いが映画に込められているはずだ。(もちろん皮肉も込められていると思う)

どうか、こんなラストでしか物語を綴じることができない現実はとっとと終わらせて、あなたとわたしが、あなたとだれかが、性別なんて超えて同じ人として向き合う世界を始めたい。自分もその世界の一部でいたいから、どんなに無力感を感じても声を上げたいし意識し続けたい。