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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.12.31(やさしいだけでうれしかったよ)

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駅を降りるとツン、と冷たい空気で喉の奥から肺まで満たされる。キャリーバッグを引いた人が何人もエスカレーターを降りて、夜の町へ飛び出していく。その流れに混じりながら古びたバスに乗って実家へ向かう。10cm以上積もった雪を踏みしめながらバスは走り信濃川にかかる橋を越えていく。あの店が潰れたなとか、あの店が新しくなったとか、少しだけ変わった街並みをバスの窓から眺めながら2年ぶりの生まれた街を見る。電子マネーのついていないバスに現金を投げ込んで降りる。スニーカーを履いている自分にびしゃびしゃの足元は容赦ない。見慣れた玄関をくぐって懐かしいようなそうでもないような家の中に入る。帰れた。久しぶりに帰れた。

気にしない、とはいいつつもやっぱり気を遣ってしまうののが人間だとしたら、その"気"によって時間は消費される。誰だって等しくそうだけど、自分は未だにとても大事な時間を奪われた気がしてならない。夜に気兼ねなく誘える友達も、もう随分少なくなってしまった。たった2年間、でも確かに経過しているその2年間を感じつつ、元いた自分の部屋とはすっかり様相の変わった部屋に荷物を置いて家族と食事をした。食卓について食事をするなんて、なんか不自然な感じがしてどぎまぎする。最近の近況とか、どこのお店が潰れたとか、近所の誰がどうだとか、誰が結婚したとか、そんな会話と同じようにどこの党に投票しただとか、天皇制がどうだとか、M-1がおもしろかったとか、母親の勤めてる保育園で働く若い子が前髪にメッシュが入ってるのに注意していいのかわからないとか、若い子の感覚についていけなくてどうしたらいいかわからないとか、そんな話をした。気付いたら深夜2時くらいになっていて家族みんなで驚いた。自分も両親のそんな話を聞きながら、「誰かと会話するのを諦めない方がいい」とそれだけは伝えた。どうせ伝わらないから、と会話を諦めてしまうのだけはしてほしくない。だって自分はそういう、人との対話にこの一年心底救われてきたから。

オリンピック開催に賛成か反対か、フェスが開催されるのには反対なのか賛成なのか、常に二択を問われ続けているような感覚になるSNSに自分が何気なく投げた言葉もそのどちらかの一部に回収されてしまうように感じた。かといって何かに反応しないのも嫌だった。自分の中でぐるぐる渦巻いてるこの気持ちがなんなのか、放っておけなかった。だからずっと始めては辞めてを繰り返していたブログのような日記のようなこの場所に文章を綴り始めた。7月頃から初めて、最近は少しサボりがちだけどほぼ毎日書けた。見落としがちな周りの景色や、意図して見落としてきた自分の、周りの嫌な部分を忘れないように言葉にできた。気がする。同じような日々を綴る人に出会えたことも良かった。それぞれの筆で、それぞれの言葉で、それぞれの目で日常を生きている人がこの世にはたくさんいて、その誰も間違っていないと思った。

人に向き合いたい、とこの一年思った。インスタントに誰かと出会えてしまう世の中だからか、いやきっとそんなことは関係なく自分の中にそういう人間関係を面倒だと思う気持ちとか、人の目に晒されることにコンプレックスを抱えてしまう部分があったからだと思う。反対に自分もそういう目で見ていたからだということでもある。つまらない。こんな生き方つまらないと思った。この中にいくつとりこぼした出会いがあるだろう。いくつ溶けていった時間があるだろう。今年、宮野真生子、磯野真穂 共著『急に具合が悪くなる』を読んだ。これまで日記を書いた中でも何度も引用した。間違いなく今年の、今後の自分を形作った一冊。男だとか女だとか、あるいは年齢だとか容姿だとか、そんなつまらない枠組みよりも、同じ人として向き合いたい。自分がそういう姿勢を諦めなければ絶対にそういう人に巡り合えると信じて続けてきた。心が折れそうな瞬間も多々あったけど、本当の気持ちと言葉で向き合って会話できる友達が増えた。歳取ったら友達ができにくくなる、なんて嘘だ。人はいつだってその気になれば繋がれる。

そんな感じで生きていると、少しだけ自分に自信が湧いてきたりする。同じ会社とは言えど希望して職種を大きく変えたのは今思えばその表れかもしれない。引っ越しをして新しい土地に住み始めた。文章を書くこと以外にも、何かをしたいと思った。ラジオを聞くことと人と話すことはやっぱり好きだったのでそういうことをしたいと思った。本当にどうでもいいことを話したい、でもそれこそが自分にとってはどうでもよくないことなんだ、と思って友達とPodcastを始めた。どうしたって話しているとコミュニケーションの話になった。こういうときなんで上手くいかないんだろうとか、なんでこんな嘘ついちゃうんだろうとか。誰かに聞かせることを目的にするのではなく、これは確かに自分のためにやってる。自分で決めた自分のためのことに生かされてる。改めて思う。奇しくも、始めるにあたってイメージしてるイラストを絵の描ける友達に頼んでみたり、DTMをやってる友達にジングルを頼んでみたり、自分ができないけど誰かが得意としてることを頼れる繋がりがあることにも気付いた。それぞれに得意な表現があって、それで繋がれるって超最高だと思った。ただ愚痴を言い合って共感する関係も価値はあるかもしれないけど、そういう力の貸し合いみたいな関係の方がむちゃくちゃカッコいいと思った。

人と向きあうってなんだよって、今でも口にするたびに思う。そう。考えてみると、それは自分にとっては自分と向き合うことと同義なんだと思う。自分が何が好きで、自分が何が嫌いなのか。どうしたくて、どうするのか。自分で自分がわからないことも勿論あるけれど、それをずーっと問い続けなきゃいけない。同時に、目の前にいる人がどういう人なのか、どうやって考えていてどうやって生きているのか。何が好きで何が嫌いなのか。わからなくてもわかろうとしたい。少なくとも今の自分にとっての人に向き合うということはそうしていくことだと思う。

来年はひとつ、明確な目標がある。本を作ってみたい。世に出すとかそういうことじゃなくて、自分のために作ってみたい。何人かの友人と知恵を出し合って一緒に作ってみたい。形に残したい。

外は雪が吹き荒んでいる。粉状の雪が風に吹かれては舞い上がりまた落ちてアスファルトの地面に積もっている。石油ストーブのついた懐かしさと新しさで満ちたこの部屋から、一年の終わりの挨拶を送りたい。これを読んでくれているあなた、ひとりひとりに出逢えて本当によかったです。