anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.08.05(ちょっと本当だったらいいな)

朝一、今年のM-1にハライチがエントリーという報を聞いて一気に高まる。アルピーと同じくハライチもラストイヤー組。やばすぎだろ〜と朝ごはんを食べながらワクワクしてしまった。さすがに暑すぎた。体感は昨日のサウナよりも熱い。やばすぎ。昼休みに同期とご飯を食べながら「やっぱりこんな炎天下でマラソンとかテニスとか、異常だよね」と言う話になってオリンピック持ち回り制を今すぐやめるべきでは、という結論になった、代替案はちょうどいい島をオリンピック島として用意する。競技会場と選手村しかない。一周42.195kmの島。もちろん国ではないので法がないことになる。それは流石にやばくね?ってことになったので有事の時はクマでも放つしかないか、ということになった。有意義な議論。

なんとなく書くことを続けられている。Twitterに書くことをやめたので、書きたいことはいっぱいあるしタイミングさえ見失わなければ書ける。でも時折なんでこんなことしてるんだっけ、とふと思うことはある。割とずっと文を書くことは好きだった。小学生のときも中学生のときも作文が好きだった。周りと違う書き出しにしてやろうとか、変なところで終わらせてしまおうとか、気取ったことばっかり考えてた気がする。ひとえに本に関してはお金を惜しまずに与えてくれた親のおかげだと今でも思う。小学生の頃に、「ハリーポッターと賢者の石」と「チーズはどこへ消えた?」のどっちかを買ってあげる、と急に言われたことを今でも覚えてる。今思うとどんな二択?チーズの方を選んで読んだけど、なんか違うと幼心に思ったのも覚えてる。結局二冊とも買ってあったのでハリーポッターをぼろぼろになる程読んでた。2年後くらいには厚みを稼ぐ格好の台になってた。高校の時には友達数人と始めたホームページ(peps!)に感傷的な文を書いたりして、久しぶりに会った中学の友達に心配されたりした。そういうこともある。そのあたりを過ぎると人間そうそう長めの文章を書く場面はない。レポートやら論文こそかけど、自分自身が思ったことを書く場面はそうそうない。例えば、会社の同期や先輩から少し長めのLINEとかが来た瞬間に思わずうっ!ってなってしまう瞬間が結構ある。読点(、)が死ぬほど多かったり、口語と文語のバランスが気持ち悪かったりする。なんというか正しいか正しくないか以前に気持ち悪い。自分はこうなりたくない。真っ先にそう思ってからは意識的に長い文を書くようにした。要は訓練である。あとは自分が好きだと思う人の文章を死ぬほど読んだ。これは本当に一番効果があると思う。以前に文章が上手くなりたいなら、向田邦子のエッセイを写経しろ、という文言を見た気がするけど本当にその通りだと思う。好きな文体が出来ると自ずとそれに引っ張られてしまうときが自分もある。これあの人の文章っぽいなあという感じ。でもそう思うと同時になんとなく自分の文章にこだわりが出てくるのも不思議な事実。自分はふたつあって、温度感とリズム。後者がすごく難しい。自分はこれくらいの間のつもり、と思って書いていても読む人にそれは指定できないのがもどかしい。ここはずばばばば!っと早く、でもここは一拍置いて、とか気持ち悪いながらそんなことを思いながら書いたりすることもある。自分が普段読んでる誰かの日常を綴った文も、その人にしか持てない筆で書かれているんだと思うととても大事なものに触れているなと思った。

帰ってうだうだしてたら久しぶりに実家から電話が来た。お盆には帰省しないのでその代わりに、ということらしい。どんなタイミングよ。フジロックに行く、という話から新潟県の人たちは結構前向きに、なんとか開催できるように頑張ってるみたいよ、という地元ニュース発信の声を伝えてもらった。興味本位で、小山田さん出るんだよ。と教えると誰それ?有名な人?とうちの母は言っていたので、自分が見ていた風景って実はすっごい狭い世界だったのかもと改めて思った。

open.spotify.com