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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.09.26(結局また言葉に縋る)

昨夜友達とzoomで話した。平日夜の時間の使い方がわからないという話の流れから、こういう雑談をPodcastとかにしてみる?みたいな話になってやってみることにした。まじで誰にも向けてない自己満足の表現。やり方のひとつにラジオ配信アプリとかもあがったけど、あの閉じられた感じはわりと自分は苦手な気がする。気付いたらまた朝方になっていたので寝た。10時頃起きた。引っ越し先の契約の手続きで登録しなきゃいけないこととかを済ませた。ご飯を食べたらすぐ眠くなった。映画を見に行こうかなぁとか頭の片隅で思ってたけどまったくもって身体が動かなかった。コーヒーを淹れて本を読みながら飲んだ。ちょっとずつ読み進めている『急に具合が悪くなる』やっぱり面白い。

半分を過ぎたあたりから明らかに読みものとしてのBPMが変わっている感じがする。往復書簡の途中で、がんを患っている宮野さんに対して磯野さんが無意識のうちに"不幸"という言葉を使ったことに対して、宮野さんは「私は不幸ではない」ということをとてもロジカルに提示する。それに対して磯野さんは間違いを自省しつつも、なぜそう思ってしまったのかを突き詰めていく。その上で哲学なんて言葉遊びに過ぎなくて誰も救えないじゃないか、という無力を感じる。それに対する宮野さんの返信のなかに、問題の本質こそ全く違えど自分が人との対話や言葉にすることで感じる悩みを消化する一言があった気がした。

わからなさの前で、自分を取り返すために、私たちは問わねばならない。これは何なのだと。

磯野さんは自分のやっている学問が言葉遊びに過ぎないかもしれないと漏らしていましたが、言葉に対抗するのは言葉でしかありません。

安易な物語に取り込まれない立脚点を、わからないことに怒り、それを問う力を、自分の人生を取り返す強さを、哲学は私に与えてくれたのです。

言葉に対抗するのは言葉でしかない。そうなのだとしたら、日常の中で感じた悩みとかその逆の喜びを文章として綴っていくことって、やっぱり自分にとってすごく大事なことだと改めて思える。誰かにどう思われるのかの前に、自分はどう思ったのかにちゃんと向き合わなきゃいけない、と思う。"対話"の読みものとして、むちゃくちゃ面白いので自分が話したいと思う人にめっちゃ読んでほしいと勝手に思った。

暗くなったのでちょっとだけご飯を食べてアマプラでいろはに千鳥を見て笑った。