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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

1が1であるために今日も - 『オッドタクシー』

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平凡な毎日を送るタクシー運転手・小戸川。 身寄りはなく、他人とあまり関わらない、少し偏屈で無口な変わり者。 趣味は寝る前に聞く落語と仕事中に聞くラジオ。 一応、友人と呼べるのはかかりつけでもある医者の剛力と、高校からの同級生、柿花ぐらい。 彼が運ぶのは、どこかクセのある客ばかり。 バズりたくてしょうがない大学生・樺沢、何かを隠す看護師・白川、いまいち売れない芸人コンビ・ホモサピエンス、街のゴロツキ・ドブ、売出し中のアイドル・ミステリーキッス…何でも無いはずの人々の会話は、やがて失踪した1人の少女へと繋がっていく。

全13エピソードを見終えたとき、頭を抱えてしまった。自分がこの作品にどう向き合えばいいのかわからなかった。いや、正直に言えばこんなに面白いのに「好きになれない」という感情が真っ先に生まれたからかもしれない。

監督・木下麦、脚本・此元和津也による『オッドタクシー』はタクシー運転手の小戸川を中心とした群像劇として物語が展開し、全体に散りばめられた伏線がエピソードを重ねるにつれて回収され、最後の最後には驚きのどんでん返しが待つ、という構造である。

それはやはり視聴後の「考察」を加速させた。YouTubeには多くの考察動画がアップロードされ、ネタバレを踏まずに検索することすらままならない。

実はこのキャラは裏でこう動いていたのでは、実はこのキャラとこのキャラが繋がっているのでは、このキャラにはこういう過去があったのでは、それはそれで楽しいのかもしれないが、どれだけ細部を詰めてもまったくもって自分のモヤモヤは晴れない。この物語が纏うレイヤーを一枚一枚剥ぎ取っていったその奥に一体何があるのか。自分の興味はそこにある。

ここからはネタバレ全開で内容に触れていくので未視聴の方々はAmazon Prime Videoにて全13話を視聴した後に会いましょう。まじで無料とかやばいから。

 

 

 

 

 

 

 

いっかい不満だけ言わせて

以下、見終わった後の正直な気持ち。

なぜ、この終わり方でなければならなかったのだろう。不穏さを漂わせるこの終わりにする必要が本当にあったのか。小戸川が"人間を見つめること"を取り戻したという結末で物語を閉じるのではなぜ駄目だったのか。それがわからなかった。それって見ている人に対して驚きを与えること以外の意味ってあるのか。

もっと言えば、ひとの命をなんだと思っているんだろう、と思った。物語の中で人を殺したり、傷つけたりするということは、現実で同じことをするくらいの覚悟を持ってほしいと思った。それがもし展開を作るためだったり、驚きを与えるためだけの意味しかないのだとしたら、はっきりとそれは露悪的なことだと思う。

現実的に人はいつか死んでしまうじゃないか、それから目を背けるのか。と言うかもしれない。確かにそうだ。

だからこそ寓話があるんじゃないか、と思う。

自分の思う寓話の持つ特性とは、"現実を作り直して書き変えられること”だと思う。ありえないことをありにしてしまうことだと思う。そこに人は希望を見出すことができるだろうし、クソな現実を少しはマシにできる唯一の方法だと思う。

今作の「動物だけの世界」という設定が「小戸川から見える世界が動物だけの世界だった」と判明することは、物語の持つ寓話性を一気に消失させてしまうことでもある。寓話を手放した上でこのラストに着地させるのか…なんて残酷なんだろう…

と、ここまでが自分のもやもやを出来る限り言語化したもの。つまり自分はこの作品が”寓話でもやらないでほしかったこと”をやってしまっていながら、”寓話だからできること”を全うしなかったことに納得できなかったのだ。

 

では、ここからはもう少し角度を変えながら、でもさあ…という感じで考えてみる。

 

 

 

人を人たらしめるものとは

作品の根幹にも関わる「小戸川の視点だけが動物だけの世界だった」というギミックにはやっぱりかなり無理があるし出オチ感も否めない。だからきっと、その本質はそこじゃない。「ほんとは動物じゃなかったんだ!」なんかで終わらせたくない。

 

小戸川の友人である剛力は"小戸川が瞬時に人を判別できること"に気付いたのをきっかけに、小戸川の抱えるものを知っていく。

小戸川から見ればみんなそれぞれ違う種類の動物なのだからそれは当たり前だ。だからこそ、沢山いる人の中から小戸川は1人を見つけ出すことだってできる。大勢いる人それぞれに違った特徴を見ることが出来るのだから。

しかし、それは言い換えれば"見えているのが人間の場合は簡単に判別できない"ということにもなる。もっと極端に言ってみよう。

例えば人は殺人犯とそうでない人を見分けることは出来るのだろうか?

 

わたしたちの使うTwitterを例に考えてみる。(作中にも重要な要素としてSNSが度々登場する。Twitterの他にもYouTubeマッチングアプリが人と人とを巡り合わせ、物語を動かす。)

では、Twitterに個性はあるだろうか。どんなに個人の中から出てきた言葉でも、発声やリズムは奪われ、挙句に均一化されたフォントで並ぶ文字列は人から個性を剥ぎ取ってはいないだろうか。胸を打つ誰かの内面の吐露と、聞くに耐えない罵詈雑言がさも同じ顔をして画面上に並ぶ。その奥にいる人の実存を掴むことなどできるのだろうか。

 

話を戻す。

つまり「動物に見える」ということは「動物に見えない」ことの困難さを浮き彫りにすることにもなる。悪意を持っている人が見た目でわかったらどれだけ良いだろう。どんな人が罪を犯すかがわかったらどれだけ楽だろう。そうはいかない。あなたと殆ど同じ顔をして明日強盗をする人が隣の席に座っているかもしれないし、わたしと殆ど同じ顔をして1時間後に人を殺める人が隣を歩いているかもしれない。

 

 

 

善意と悪意の両義性

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「オッドというのは二つ一組の片方って意味だ。俺とお前、どっちが欠けてもこの作戦は成功しない。10億を手に入れて協力してくれた銀行員二人に1億ずつ渡して、あとは山分けだ。いいな」

タイトルでもある"オッドタクシー作戦"についてドブはこう話す。どちらかが一方では成り立たないもの、もしくは両方が必ず同時に存在してしまうもの、

それはこの世界に潜む善意と悪意と捉えてもいいのではないだろうか。

白川さんが言う「勧善懲悪って訳にもいかないじゃない?」を地で行くようにまさに勧善懲悪に落とし込まれないラストを迎えたことで自分もその部分に反応してしまった訳だけど、その両面性を描くためにはあのラストである意味があるのだろうか。そんなふうに思えなくもない。

 

 

 

ODD

=変な,風変わりな,妙な,変で,妙で,(二つひと組の)片方の,(一定数の組の)はんぱな,奇数の,残りの,余分の

とある。

いくつもある訳のなかで、ここでは特に後半の意味たちに注目したい。

「自分に対する極端な否定と嫌悪、そういうとこが自己愛強いって言ってるんだ。普通のやつはそこまで自分に興味ない。」


「なぜ他人から認められたいかというと、自己肯定感が低いからだ。自信がないから自分で自分を認めることができない。そのくせ自己愛だけは人一倍強い。」

作中でも何度か登場する自己肯定、承認欲求、自己愛という言葉。

いつまでも、どこまでいっても人は満たされない。だからそれを満たしてもらうために他人を求める。1であることに耐え切れなくなって結びついた1と1は2になる。しかし、作中におけるあらゆる2の関係は須く破綻していく。親子の血縁も愛も友情も結局はなくなり個人だけが残る。

2に限らない。奇数として形を作りかけたミステリーキッス(3人)とそのファン(5人)も最終的には解体され1へと帰っていく。

なぜだろう。人はこうも満たされたくて身を寄せ合うのに結局は1であることから逃れられない。

 

 

ただ、きっとここまで読んでいる人ならわかっているだろう。

作中最後まで、唯一2の形を繋ぎ止めた2人がいることを。

胸に闇を落とす結末に絶望しながらも、やっぱりこの作品を好きになってしまうのは希望のような存在としてこの2人がいたからなのだと確かに思う。

あの2人の存在はもっと大きな「お笑い」というカルチャーと言い換えてもいい。もっと言えば孤独な夜に語りかける「深夜ラジオ」と言い換えてもいい。

あの2人を中心としてたくさんの1が見えないもので繋がるのだとしたら、今日も1は1である意味があるのだと、胸を張って言える気がする。

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