anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2019年ベストムービー30 [1~10]

10. スパイダーマン:スパイダーヴァース

f:id:moire_xxx:20191224214556j:plain

ニューヨーク、ブルックリン。マイルス・モラレスは、頭脳明晰で名門私立校に通う中学生。彼はスパイダーマンだ。しかし、その力を未だ上手くコントロール出来ずにいた。そんなある日、何者かにより時空が歪められる大事故が起こる。その天地を揺るがす激しい衝撃により、歪められた時空から集められたのは、全く異なる次元=ユニバースで活躍する様々なスパイダーマンたちだった――。

面白かった!!!!できるならこれだけしか言いたくない!!!同じように面白いと思うかは別として、とにかく世界中の全員にこの映画を見てほしい。特に、この先の世界を生きる若者たち、小中高校生とかにはマストで見てほしい。彼らがこれを見て何を思うのかを考えただけで、おじさんは涙ぐんでしまうよ。とにかく多層的にいろんなことをいろんな立場でいろんな人と話せる映画だ。
この世界の片隅で膝を抱えていても、きっと誰かが見つけてくれる。君がどこの国の誰だろうが、そんなことどうでもいい。僕はスパイダーマン。君もスパイダーマン。あとは自分を信じて飛ぶだけ。

 

9. ブラック・クランズマン

f:id:moire_xxx:20191224214546j:plain

1979 年、アメリカ・コロラド州コロラドスプリングスの警察署でロン・ストールワースは初の黒人刑事として採用される。署内の白人刑事から冷遇されるも捜査に燃えるロンは、新聞広告に掲載されていた過激な白人至上主義団体 KKKクー・クラックス・クラン)のメンバー募集に電話をかけてしまう。自ら黒人でありながら電話で徹底的に黒人差別発言を繰り返し、入会の面接まで進んでしまう。問題は黒人のロンは KKK と対面することができないことだ。そこで同僚の白人刑事フリップ・ジマーマンに白羽の矢が立つ。電話はロン、KKK との直接対面はフリップが担当し、二人で 1 人の人物を演じることに。任務は過激派団体 KKKの内部調査と行動を見張ること。果たして、型破りな刑事コンビは大胆不敵な潜入捜査を成し遂げることができるのかー!?

好みこそあれど、「グリーンブック」とどちらが良い、とかそういうのは野暮だと思う。例えスパイク・リー本人が何と言おうが。どっちも必要でしょ。少しでもこうあってほしいと願う「希望」の映画と、浮かれてんじゃねぇぞと「現実」を叩きつける映画と、どっちも必要。

潜入ものとしてのスリル、コミカルさ(アイ、トーニャのアイツが一手に担う)など、映画としてのおもしろさが詰まった作品でありながら、やはり強烈に忘れがたいラストに全て持っていかれてしまった。「考えさせられた」なんて言葉で終わらせてしまうのに腹が立ってしまうくらい。何か行動を起こせないものか。ブラックパンサー、ドリーム、This is America、デトロイト、ときてもまだだめか。どうにかしてくれ、世界よ。いや、どうにかしようぜ。日本ってこれ他人ごと?違うくない?人種だけの話じゃない。自分なりの生き方を奪われたらどう?周りと少し違うところを責められて馬鹿にされたら嫌じゃない?

仕事で海外の人と関わることがたまにある。上司があるアジアの国の人を指して「あいつら馬鹿だから、これくらい説明してやんないとわかんないだよ。」と言っていた。自分ができることはこういうところから変えていくことだと思う。半径3メートル以内から。これは怒りの映画だ。

 

8. アド・アストラ

f:id:moire_xxx:20190605083526j:plain

ロイ・マグブライドは地球外知的生命体を探求に人生を捧げた英雄の父を見て育ち、自身も宇宙士の仕事を選んだ。しかし、その父は地球外生命体の探索に出た船に乗ってから 16年後、43億キロ離れた太陽系の彼方で行方不明となった。だが、父は生きていた──。

先日、旅行先のホテルに家の鍵を置き忘れてしまい、帰ってくるも休日のため管理会社もやっておらず、行くあてもなく彷徨うという経験をした。馬鹿である。しかしこのとき感じた「自分はどこに帰ったらいいかわからない」という感覚は非常に不安定で、そしてとてつもなく虚しい。

大味で既視感のある予告とはかなり手触りの異なる寂しい映画だ。「死んだと思われていた父を探す」という目的を達成するために海王星に向かうブラピ。道中に立ち塞がる障害である「略奪者」「実験動物」「乗船者の反乱」はどれも記号的で、具体性など多くは語られない。言ってしまえば通過していくだけ。それらは主人公の周りからすべてを少しずつ剥ぎ取り、孤独にしていく。火星の地底湖を進むシーンでは漆黒の闇の中を一本の配管を伝って歩く。終盤のあるシーンでは一本のロープを自分に縛り付けて宇宙空間を漂う。この映画はそういう映画である。真っ暗闇の中をただ一つの目的を達成するためにそれにしがみついて"独り"で歩く映画なのだ。
では、そのたった一本のロープさえなくなってしまったら?真っ暗闇の中で向かう先も、さらには歩く意味さえ失ってしまったら?圧倒的な虚無感の中でそれでも進む意味があるとしたらそれは何なのか。人工知能ワームホールも異生物も存在しない宇宙の果てで至極個人的な問題に向き合うという結末にもかなりグッとくる。少し結論としてありがちで小さくまとまってしまった感はあるけれど、むちゃくちゃ好きな映画だ。

 

7. 愛がなんだ

f:id:moire_xxx:20191227003022j:plain

28 歳のテルコはマモル(マモちゃん)に一目惚れした5ヶ月前から、生活はすべてマモちゃんを中心に動いている。仕事中でも、真夜中でも、マモちゃんからの電話が常に最優先。仕事を失いかけても、親友に冷たい目で見られても、マモちゃんがいてくれるならテルコはこの上なく幸せなのだ。けれど、マモちゃんにとっては、テルコはただ都合のいい女でしかなかった。マモちゃんは、さっきまで機嫌良く笑っていたのに、ちょっと踏み込もうとすると、突然拒絶する。今の関係を保つことに必死なテルコは自分からは一切連絡をしないし、決して「好き」とは伝えられない。
ある日、朝方まで飲んでマモちゃん家にお泊まりしたことから、2人は急接近。恋人に昇格できる!と有頂天になったテルコは、頼まれてもいないのに家事やお世話に勤しみ、その結果、マモちゃんからの連絡が突然途絶えてしまう…。
それから3ヶ月が経ったころ、マモちゃんからひょっこり電話がかかってくる。会いにいくと、マモちゃんの隣には年上の女性、すみれさんがいた…。

理屈や言葉じゃ表せないけど、自分はこういう映画に出会うために映画を見続けるんだろうなぁと思わされた。引き合うように、ときに反発するように人の内面は近づき離れる。テルちゃんもマモちゃんも葉子ちゃんも仲原もすみれさんも少しずつ別の人で、すこしずつ同じ部分があって、それが少しだけ重なったり離れたりする。そのなかにたまに見ている自分が加わったりする。この気持ち知ってる。と。

「愛」という言葉はとてもいい加減で暴力的だと思う。だってその入れ物のなかには「好き」という感情もあればその逆の感情が入ってしまうこともある。コンビニの前でテルちゃんと仲原が話すシーンでテルちゃんが言う「愛がなんだってんだ」っていうのは「(世間一般が言う)愛がなんだってんだ!そんなの知ったこっちゃない!」ってことだと自分は思った。そんな関係やめときな、と誰かは言うだろう。きっと報われることはないのかもしれない。だからって好きは止められない。そんなふうに捻れた「愛」と呼ばれるそれを信じていかなきゃ僕らは生きていけないんだと思う。自分はこの物語の結末をちっとも後ろ向きだなんて思わなかった。

土鍋のうどんとアルミホイルのうどん、カップラーメンと中華料理屋のラーメン、1Rのお風呂と銭湯、金麦ロング缶と赤ワイン、いくつもの対比で浮かび上がらせる心情の変化やショットの強度もさることながら、今回は会話劇としての台詞や間が最高だった。

以下、最高ポイントまとめ
夜の帰り道と金麦ロング缶、揚げなすと焼きなす、焼酎ボトル、大晦日の餃子、テーブルについたシミ、力加減どうですかー?とても良いです。良いですか。、公園で煙草を吸う岡野陽一、なんでいまさらたってんのよ、わたし、パスタつくる!、Homecomingsによるエンディング「Cakes」のリリック"こうならないように歩いてきたのだ"

 

6. サスペリア

f:id:moire_xxx:20190213173616j:plain

1977年、ベルリンを拠点とする世界的に有名な舞踊団<マルコス・ダンス・カンパニー>に入団するため、スージー・バニヨンは夢と希望を胸にボストンからやってきた。初のオーディションでカリスマ振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大事な演目のセンターに抜擢される。そんな中、マダム・ブラン直々のレッスンを続ける彼女のまわりで不可解な出来事が頻発、ダンサーが次々と失踪を遂げる。一方、心理療法クレンペラー博士は、患者であった若きダンサーの行方を捜すうち、舞踊団の闇に近づいていく。やがて、舞踊団に隠された恐ろしい秘密が明らかになり、スージーの身にも危険が及んでいた――。

時に人は自分の理解が及ばないことを「恐怖」と名付けたり、排除したりする。でも、もしかしたら、その対象を「美しい」と感じることも、あるのかもしれない。

ルカ・グァダニーノの映画とはいえまさか「サスペリア」が自分の生涯で忘れられない一本になるとは思わなかった。序盤のダンスとアレの二重奏からちょっと只事じゃない感で溢れる。大筋ではこういう話なんだろう、という自分の想定があるポイントからぐにゃりと歪んでいく。
盗む/盗み見るという行為が映画全体を貫き動かしていく。Thom YorkのUnmade(Thom Yorkのキャリアでも指折りの名曲だと思う)にのせて起こるあるシーンは、もはやなにを見させられているかわからないのになぜか胸を打たれてしまう。

普通の映画であればそこがピークでもいいはずなのに、この映画の核はその後にやってくる。(後から考えてみると全体を通底していた)誰が誰に赦しを与えるのか、その人にとって何が赦しとなるのか、果たしてそれは赦しなのか。そんなことをずっと考えてしまう。(ひとりで見ないでくださいってそういうことか!)

最初に書いた、理解できない対象を恐怖や美と呼ぶように、「誰かを救えなかったこと」が「誰かを救うこと」の理由になったり、もっと言えば「誰かへの想い」が「別の誰かへの想い」になり得る。この映画においては、そういう転移がしばしば起こる。(冒頭の診察室のシーンでユングの転移の心理学が示される)転移ってのは味気ない言い方だね。だから自分はそれを「感情のバトン」のようなものだと捉えたい。「君の名前で僕を呼んで」がそうだったように、いつか殺した想いがずっと先、思いもかけないところに繋がったりすると思いたい。あの壁に残る痕跡のように。確かにここに在ったと。

 

5. ROMA

f:id:moire_xxx:20191224214522j:plain

政治的混乱に揺れる1970年代のメキシコを舞台に、アカデミー賞受賞監督アルフォンソ・キュアロンが、ある家族の姿を鮮やかに、そして感情豊かに描く。

Netflixで配信が開始されてからもなぜか重い腰が上がらず、はてどうしたものかと考えた末に、ずっと行きたかったアップリンク吉祥寺で初鑑賞。あまりの凄まじさと情報量に咀嚼しきれず、その後Netflixで2回見終わってようやく書こうという気持ちになった。いやいや、こんな映画が配信でいつでも観れるなんてすごいよねほんと。。

この映画を何も起こらない映画だと捉える人もいるのかもしれない。確かに平坦かもしれない。でも、自分にとってはアベンジャーズと同じくらい、もしくはそれ以上にハラハラして見逃せない瞬間の連続だった。いや、比べる対象がおかしいですよね。
でも本当にそれくらい。この映画を美しいショットだけの映画だけで終わらせたくない。美しいショットは同時にそれと同じくらいに雄弁だ。

映画が始まった最初のシーン。細かく区切られた床のタイル、ブラシの音、流れる水、水に反射する空を横切る飛行機。もうこれだけで何か語れてしまう。水は映画全体を貫いて「生」と死」を象徴する。その裏返しのように火がともされる山火事のシーンもとても印象深い。装飾された庭の向こうから徐々に煙が上がっていくシーンのあの不気味さと美しさはなんだ。燃えさかり、倒れる木前で歌う男を捉えるロングショットはなんだ。そしてラストの海のシーン。日常から不意に訪れる死。かつて救えなかった(殺してしまった)生命を必死に掴むように、クレオは海を進む。「死」がどうしようもなくそこにあるのなら、反対に生まれるものもある。死の傍らの浜辺で生まれたものは果たして。
他にも、芸術的車庫入れ&無理やり三車線、フェルミンのシャワールームカーテンを使った棒術、道場を訪れる謎の先生の教え、犬の剥製、走ってくる羊の列、巨大ガニの置物などなど、名(迷)シーンが連発。一瞬も見逃せない。

 

4. Us

f:id:moire_xxx:20191224214359j:plain

アデレードは夫のゲイブ、娘のゾーラ、息子のジェイソンと共に夏休みを過ごす為、幼少期に住んでいた、カリフォルニア州サンタクルーズの家を訪れる。早速、友人達と一緒にビーチへ行くが、不気味な偶然に見舞われた事で、過去の原因不明で未解決なトラウマがフラッシュバックする。やがて、家族の身に恐ろしい事が起こるという妄想を強めていくアデレード。その夜、家の前に自分達とそっくりな“わたしたち”がやってくる・・・。

やられた〜〜。めちゃくちゃ期待して観に行ったけど完全にその期待に応えてつつ、思いもよらないところに着地させられて茫然&口あんぐりでした。

プロローグの文章と檻に入った無数のウサギが出た時点でカラクリ自体は予想できてしまう訳で、オチへ向けたどんでん返しだけを楽しみに行ってしまうとそれはちょっともったいない。まあ最後の最後のオチで一気に世界が反転するのはむちゃくちゃ上手いし驚かされるんだけど。

前作「ゲットアウト」で黒と白を向かい合わせたのだとしたら、今回は同じ色の中でのグラデーションにまでジョーダンピールは踏み込んでいく。
1986年のアメリカがやろうとしたこと、そしてその結末に起きることは果たして映画の中のフィクションだろうか。

例えば、わたしたちの住む日本でも「東京オリンピック」という、然も国が一丸となりそうなわかりやすい張りぼての裏で、別の何か醜いものは産まれてはいないだろうか。その張りぼてが役目を終えたとき、もしくは意味を無くしたとき、産み落としてしまった影の始末は?それを隠せる場所って?そう考えると、よりゾッとしません?

襲い来るのが自分である限り、自分自信を超えなければそれを倒すことはできない。冒頭で手際よく家族4人がそれぞれ自分に抱える問題が提示され、⦅Us⦆との対決のなかでやはりそれに向き合わざるを得ないのだけど、決着のつけ方が決して根性論じゃないのがめちゃくちゃクレバー。なに真面目に勝負してんの?と言わんばかりに。

そしてラスト。あの車の向かう先が果たしてどんな場所なのか。そんなことを考えるだけでワクワクするし怖くもなれる。これが映画の面白いとこだよね。

 

3. アベンジャーズ/エンドゲーム

f:id:moire_xxx:20191224214332p:plain

最強を超える敵“サノス”によって、アベンジャーズのメンバーを含む全宇宙の生命の半分が一瞬で滅ぼされてしまった…。残されたアイアンマンをはじめとするヒーローたちはもう一度集結し、サノスに立ち向かうため、そして世界を救うために最後にして史上最大の戦いに挑む──。

「アイアンマン」から足掛け11年。個々の作品に関しては思い入れの差はあれど、MCUとしての1つの世界をこんなに熱を持って見続けるとは自分でも思わなかった。そして、その1つの結末を見届けることができることを冗談でもなんでもなく、奇跡なんじゃないかと思ってる。例えば自分がもう少し若かったら、この世界を斜めに見てたかもしれないし、もう少し老いていたらこんなに熱狂することもないかもしれない。今だから、なのだと思う。

「インフィニティウォー」を見た後に、どうやったらあのサノスに勝てるねん…と頭を悩ませたりもしたけど、それよりもこの「エンドゲーム」に期待していたのは、この10年ヒーローを描いてきたマーベルが、サノスとの決着にどんな答えを提示してくれるのかだった。強い技を覚えたから勝った、強い仲間が出来たから勝った、とかそういうこと以外の答え。ヒーローがヒーローとしてこの世界に存在する意義。みたいなもの。
おれはこの映画にはそれがあったと思う。だからそのシーンを見てる瞬間こそ、いちばん涙が溢れてしまった。本当に、追い続けて良かったと思った。過去を振り返る、というのは人間の後ろ向きな弱い部分でもあるけれど、同時にそれは過去から学び、過ちを認め、やり直すことができるといということでもあるのだと思う。それが人間の、あるいは正しいことをしようとするものの持っている強さなのだと思う。それはマーベルがどの作品でも向き合い続けたテーマでもあり、アベンジャーズがサノスに勝てた一つの理由。もう1つの理由は、月並みだけど助け合えること。利他的に意味超えて誰かに手を差し伸べられること。ボロボロに傷ついたキャプテンが立ち上がった後の「on your left(左から失礼)」でもう涙が洪水でした。

入場前ロビーの興奮感、上映前のカウントダウン、タイトルバックの拍手と歓声、あるシーンでの拍手、笑い声、鼻をすする音、エンドロールでの拍手。そういう映画体験も映画の評価に入れてもいいと自分は思う。もちろん、作品としての出来もこれ以上ないと思います。娯楽映画として確実に1つの到達点。

 

2. マリッジ・ストーリー

f:id:moire_xxx:20191224214321j:plain

離婚プロセスに戸惑い、子の親としてのこれからに苦悩する夫婦の姿を、アカデミー賞候補監督ノア・バームバックが、リアルで辛辣ながら思いやりあふれる視点で描く。

自分は誰かが恋に落ちる瞬間や二人の間に愛が生まれる瞬間を捉えた映画に弱い(とても好きという意)。その理由をこの映画に教えてもらった気がした。生まれた愛はいつか消えてしまったり、もしくは形を変えてしまう寿命付きのものだから、そんな儚さに惹かれてしまうのだと思う。

言わなくてもわかる、言わなくても伝わることは確かにあるだろう。でもそれはどうしたって"言わないまま"なのだ。それは少しずつ少しずつ紐を絡めて気づいた時にはもう目も当てられない。人の手を借りたってもっと複雑になるばかり。解き方だって最初から知っていたはずなのに。

離婚から始まる物語というとやはり坂元裕二の『最高の離婚』を思い出してしまう。惜しくも今年2019年にこの世を去った八千草薫さん演じる濱崎亜以子さんの台詞を引用したい。
「幸せになってくださいって言ったんでしょ。だったら、そうなれるような道まで連れてってあげなさい。その先があなたでも、あなたでなくても。」
そう。これだ。たとえ進む道が分かれたとしてもその先を歩くための靴紐をもう一度結んであげることは、きっとできる。

胸が痛くなるようなテーマでありながらシリアスになりきらない、ユーモアを忘れないのも劇映画として偉い。事実自分はナイフのシーンで爆笑してしまった。しかし、他の誰でもない自分がつけた傷口から溢れる血を必死に塞ごうとするのは物語の象徴のような気がした。

 

1. Once Upon a Time in Hollywood

f:id:moire_xxx:20191224214314j:plain

リック・ダルトンは人気のピークを過ぎたTV俳優。映画スター転身の道を目指し焦る日々が続いていた。そんなリックを支えるクリフ・ブースは彼に雇われた付き人でスタントマン、そして親友でもある。目まぐるしく変化するエンタテインメント業界で生き抜くことに精神をすり減らしているリックとは対照的に、いつも自分らしさを失わないクリフ。パーフェクトな友情で結ばれた二人だったが、時代は大きな転換期を迎えようとしていた。そんなある日、リックの隣に時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と新進の女優シャロン・テート夫妻が越してくる。今まさに最高の輝きを放つ二人。この明暗こそハリウッド。リックは再び俳優としての光明を求め、イタリアでマカロニ・ウエスタン映画に出演する決意をするが―。
そして、1969年8月9日-それぞれの人生を巻き込み映画史を塗り替える【事件】は起こる。

身勝手な論理を振りかざして容易く誰かの命を奪ってしまうような不条理がすぐ隣にある。思い当たるようなことが自分たちのすぐ近くでもあるでしょう。1969年と2019年はもしかしたらそう変わらないのかもしれない。
それまで当たり前に続くと思っていたその人の人生ははそこで途切れるのだ。「人生」なんて言い方は浅はかかもしれない。その人がいつか奏でたであろう音や綴られたであろう文章、彩る色や描く線、もっと普遍的なことで言えばスマートフォンで捉えた写真や誰かと交わした言葉は産まれないままに終わってしまうのだ。そんな、そんなことが簡単に起きていいものか。
「死」は「生」の前では圧倒的だ。凄惨な事件の「被害者」になってしまったら、まるでそれまでがなかったかのように塗りつぶされてしまう。違う。そうじゃない。そうじゃないはずだ。道が途絶えた岸壁よりも、確かにそこまで歩いてきた道にこそ意味や価値はあるはずだ。一見平坦に見えるこの映画の前半から中盤にかけての描写のひとつひとつは、シャロン・テートという女優のそんな道を確かに捉えている。

命としての「生」だけではない。夢についても同じだろう。夢が途絶えたとしたらそれまでの道は語られる価値はないのか。そうじゃない。この映画で描かれるリックとクリフの歩んできた道は、辿り着いた場所には確かな意味がある。

目を塞ぎたくなるような現実に立ち向かうためには人は想像し、考えて、行動するしかない。不条理を掲げてくるやつらにはとことん中指を立てて燃やし尽くしてやるしかない。ファック!

しかしこのブラピの魅力はなんだろう。クリフがリックの家から帰るシーン。夜のハイウェイを疾走する車を後部座席から、並走する車から捉えたカットは思わずため息がもれるくらいにかっこいい。