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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

想像力は河を越える - 『この空の花 長岡花火物語』

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僕の住む新潟県長岡市では8月2日、3日と花火が上がる。今年はそれにあわせて大林宣彦監督の「この空の花 長岡花火物語」を見た。異常な傑作だった。そして、その後に長岡花火を見ることの感慨深さもまた異常だった。

映画が始まると同時に「これは普通の映画ではない」という感覚に襲われる。異常なのだ。この異常さは一体なんなのか。まるで倍速かのようなスピードの異常さか。瞬きのように切り替わるカット量の異常さか。笑ってしまうくらい説明過多な字幕の異常さか。(会話の中で「この辺はじゃが芋を育てていてね・・・」と誰かが言うと”じゃが芋”という字幕が差し込まれたり、「僕はトライアスロンをやっているんです」と言うと”トライアスロン”という字幕が出たりする。なんだこれ。)もしくは、現実と虚構がないまぜになった異常さか。そのどれもが間違いなくこの映画の異常さを担っているのだけど。

そして、その異常さが臨界点に達したまさに「大団円」の瞬間(これも字幕が出る)に頬を伝うこの涙は一体なんだ。まったく説明がつかない。「おもしろい」とか「良い」とか「悪い」とかそういう範疇の話ではない。異常だ。

 

思った。これって花火を見ている時の感覚じゃないか。何万人の人が同時に空を見上げて一つのものを見る。それを見てそれぞれに違うことを思う。年を経るたびに、その運動のエモーショナルさに涙腺が刺激される。花火を見ている人は何を考えているんだろう。綺麗だな、とかそうでもないな、とか何年前のあのときはこうだったな、とかあの人は見てるかなとか、これを打ち上げるのにどれだけの人が関わっているんだろう、とか。何かを想像しているはずだ。自分はそうだ。

何万の想像力が一つの環になって隔たれたこちらとむこうを繋げる。その想像に及ばない異常さこそ僕は花火の魅力なんじゃないかと思う。劇中でも、人と人との間にある埋めようのない隙間について触れられる。その隙間を埋めるのは「想像力」であると。あなたとわたしは別個の生き物だけど、同じものを見て思うことは違うけれど、それでも、今ここに一緒にいること。それを想うこと。みたいな。

何よりこの映画はまっすぐな反戦を唱える映画であるからして、ここでいう隙間は国と国の隙間ともなりえる。

 

ここまで異常だ、異常だとこの映画のヘンさにばかり触れてきたけれど、同時にとてもまっすぐなことをやっていたりもする。映画の中でも特に象徴的な「一輪車」は多重的な意味を持って機能しているし、時系列の入れ替えも伏線の回収においてとても有効に作用している。特に日傘や靴を巡るやり取りのさりげなさはもうね。また、メッセージとしても、震災にあたってフェニックスを中止するか否か、という議論の中で、ある人から発される言葉のまっすぐさにやられる。しかもラストでは「時かけ」か!と言わんばかりの(時をかける少女大林宣彦作品!)展開まである。

 

長岡で見る花火はもしかしたら今年で最後になるかもしれない。でも離れてても景色は想像できるんじゃないかな。あの瞬間をいままでずっと見てきたし、それに長岡の花火はゆっくり散るからさ。