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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2019.05.27

好きな文を書けるっていうのは幸せだよね。毎日論文と向き合ってると強く思う。どっちでもいいやんけ!みたいなニュアンスの違いで文章の組み立てを直され、どっちでもいいやんけ!みたいなニュアンスの違いでてにをはを直される。そりゃ形式はあるだろうけど、ここまでいくと好みだ。それならおれが書く意味ないのに。でも文章なんて好みだよなあと思う。自分が好きな文は、文章や構成が破綻していたとしても熱がある文。その人が書きたいと思ったのが伝わる文だ。映画や音楽のレビューは好みが分かれやすい。背景や情報をたらたらと書くレビューは好きじゃない。調べれば誰にでも書けるから。おれが興味あるのはそれを見て/聞いてあなたはどう思ったんですか?ということだけ。自分と同じ意見なのか違う意見なのかもどっちでもよくてなにが好きでなにが嫌いなのかが知りたい。だからなにもなく好きなものを貶されたりするととても腹が立ったりする。インプットすることが重要なのではなく、それから何を出すかが大事なんだと思う。

 

帰り道がおなじタイミングになった先輩と歩いて帰る。2人目の子供が生まれる、家を買うらしい。おめでとうございますと言った。まだ何もしてないけどね。と言われた。まぁたしかに。家も建ってはないし、子供も産まれてはいない。まぁそうなんだけど。そういう決心って、まあそもそもあるかどうかもわからないけど、することってすごいと思うから、その決心に対するおめでとうございます。ということにしよう。横断歩道を渡って先輩と別れる。イヤホンをつけようとしたら後ろに先輩が立ってた。コンビニに立ち読み行こうと思って。と言う。そういうの好きだな、と思いながら イヤホンを外して2人で歩いてコンビニまで行った。