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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022年ベストムービー20 [1〜10]

10. THE FIRST SLAM DUNK

主将である赤木剛憲を筆頭に、宮城リョータ桜木花道流川楓三井寿ら神奈川県立湘北高校バスケ部のメンバーたちは「全国制覇」を目標に掲げ、バスケと向き合っていく。

当たり前だけど、映画に何を求めるかによって見え方って違うよなって心底思った。
自分は原作(と呼ばれるものがあれば)への忠実さとか、あるいはノスタルジーみたいなものには本当に興味がない。知っているものよりも知らないものの方が光って見えてしまう。だから、まさか2022年に公開されるスラムダンクの映画にそんなことを考えさせられるとは思いもよらなかった。なんなら自分は今作において「映画」を見に行くという事前の心持ちすらなかった。だって知っている物語の、絶対に面白いってわかっている試合が描かれるなんて、そこに新鮮さがあるわけない。だから見た後に今作がどうしようもないくらい「映画」であることにめちゃめちゃ驚いた。

ここはしっかり言語化したい。

ある限定された時間の中での変化を描こうとするその姿勢や意志からすでに映画だと思った。

前後のエピソードを排除し、原作に則った物語を語らない代わりに試合中の関係性の変化や展開で人物を語ろうとするのは映画的な演出だと思った。

目には見えないもの(風、匂い、音、痛み)をそこにあるように思わせるのが映画的な効果だと思った。
どこにカメラを置くのか、誰の視点で世界を見るのか。その視点の新しさがあるのか。ここが一番今作を映画だと思ったポイント。こうだと思い込んでいたものの見え方を2時間で変えてしまうもの。これが映画だし、映画でしか成し得ないことだと思う。

それはやっぱり『SLAMDUNK』以降の『バガボンド』『リアル』を経た井上雄彦だからこそ生み出せた視点に思える。
描き出そうとしていることは、直近で言えば新海誠『すずめの戸締り』ともそう変わらない気がする。もちろんスラムダンクにそういうものを求めていない人には余計になるのもわかるけど、ここから目を逸らしたらいけないと自分は思う。あまりに多くを失って、自分の存在を軽視してしまう人は、多分この世界にたくさんいる。別に他人事じゃないと思う。いつ自分がそうなったっておかしくない世界だし。

 

 

 

9. みんなのヴァカンス

夏の夜、セーヌ川のほとりで、フェリックスはアルマに恋をする。夢のような時間を過ごすが、翌朝、アルマは家族と共にヴァカンスへ旅立ってしまう。フェリックスは、親友のシェリフ、相乗りアプリで知り合ったエドゥアールを道連れに、アルマを追って南フランスの田舎町ディーに乗りこんでいく。自分勝手で不器用なフェリックスと、生真面目なエドゥアール、その仲を取り持つ気の優しいシェリフ。
サイクリング、水遊び、恋人たちのささやき。出会いとすれちがい、友情の芽生え…。3人のヴァカンスも、みんなのヴァカンスも、まだはじまったばかり──。

夜の魔法についての映画だった。もうその時点で好き。

振り返ると冒頭からそう。大きな行動を起こすのは決まって夜で、朝が来て次の日を迎えるとその結果が現実に返ってくる。そしてそれは悉く思うようにはいかない。それでもあの魔法のようなひと時を忘れられないから手を伸ばしてしまう。その愚かさと、抗えなさと、煌めきが好きだから自分は夜の映画が好きなんだということを思い出した。

成長の物語でもなんでもないから変わる必要なんてない。聞こえる歌声に気付いたり、知らない人達と歌うことの楽しさに少し気付いたりする、そのちょっとした気付きだけがあればいい。

何にもない、何てことのない時間だからこそ、この時間ももう二度とこない、とても限定的なものに思える。映画なんてみんなそうか。だから好きなんだよな。

 

 

 

8. NOPE

舞台は南カリフォルニア、ロサンゼルス近郊にある牧場。亡き父から、この牧場を受け継いだOJは、半年前の父の事故死をいまだに信じられずにいた。形式上は、飛行機の部品の落下による衝突死とされている。しかし、そんな“最悪の奇跡”が起こり得るのだろうか?何より、OJはこの事故の際に一瞬目にした飛行物体を忘れられずにいた。牧場の共同経営者である妹エメラルドはこの飛行物体を撮影して、“バズり動画”を世に放つことを思いつく。やがて起こる怪奇現象の連続。それらは真の“最悪の奇跡”の到来の序章に過ぎなかった……。

終盤、目の前に広がる光景に抱えたことのない感情でいっぱいになった。なんというか、もう馬とバイクが走ることの快感に尽きるような気がする。まずはこの気持ちに向き合わなきゃいけない。この快感は伏線回収やどんでん返しみたいなものでは決して得られない『映画』が持つ本来の力。

そう。徹底して『映画』の映画だ。もっといえば『撮ること/観ること』の映画でもある。撮る側/撮られる側、見る側/見られる側は縦横無尽に反転し続け、映画自体が回転していく。

もう少し踏み込んで見るとしたら、それは搾取する側/搾取される側の二分化が拭えない映画業界、いやもっといえば社会全体の構造にも接続できる。虐げられ、名前を奪われているのは誰なのか。UFOという名前が無くなった、とエンジェルが話す件がとても印象的に残る。

しかし、その上でもう一段『それでも撮るんだ』に飛躍していく展開が個人的にめちゃくちゃ好き。自分達に批判的でありながら、それでもカメラを向けることから逃れられない。IMAXカメラで撮影するシーンをIMAXスクリーンに投影すること。同じようにそれを見る自分も上空に目線を上げている。なにこれ!なんなのもう!

もう少しライトな見方をするとしたら、映画におけるジャンルの縄張り争いと見てもいい。ブラックヒューマンに立場を奪われた飛行物体の逆襲、からのあのラストカットは個人的にとても納得がいく。

 

 

 

7. 秘密の森のその向こう

最愛の人を失った8歳のネリーは森の中で少女と出会う。それは“8歳のママ”だった──
8歳のネリーは両親と共に、森の中にぽつんと佇む祖母の家を訪れる。大好きなおばあちゃんが亡くなったので、母が少女時代を過ごしたこの家を、片付けることになったのだ。だが、何を見ても思い出に胸をしめつけられる母は、一人出て行ってしまう。残されたネリーは、かつて母が遊んだ森を探索するうちに、自分と同じ年の少女と出会う。母の名前「マリオン」を名乗るその少女の家に招かれると、そこは“おばあちゃんの家”だった──。

バースデーケーキの火を吹き消した途端に暗い部屋のベッドの上にカットが変わったり、同じ部屋だけど"違う時空"に繋がったり、走る一人の背中を追っている画角の中にそれを追うもう一人の背中が入ってきたり、まずはとにかく編集がとても気持ち良い。印象として間延びしそうな映画だけど、弛緩する瞬間が一度もない。故の74分。

技法にだけ言及するほど自分も冷静ではなくて、実際見ていてかなり感情的に掻き立てられた。とくに映画の中で唯一劇伴が流れる主観は脳みそと身体がざわざわして堪らなかった。直前の「未来の音楽?」というやりとりも相まって忘れ難いシーン。

"もうこの時間は二度と訪れない"という予感と、だからこそ強く残る名前を呼び/呼ばれることの儚さ。それは相手が誰であろうとそうだし、年齢だって関係ないような気がする。牛乳が溢れることを笑ったり、裏返しになったセーターを直したり、夜明け前の月が部屋に落とす影を何となく見つめてしまったりするその瞬間にも、薄らと別れの予感がある。それはあの子と別れてしまうことだけじゃなくて、自分が変わっていくことの予感でもある気がする。

ああ、だから自分は映画の中に知ってることの実感よりも、靄のようなわからなさとか予感のようなもの、つまりは流動的なものに価値を見るんだなと改めて思わされた。あとはやっぱり、言えなかったさよならを言う映画が自分は好きなんだよ。それは映画じゃないと出来ないじゃん。

 

 

 

6. トップガン・マーヴェリック

アメリカのエリート・パイロットチーム“トップガン”。しかし彼らは、ベスト・オブ・ザ・ベストのエースパイロット達をもってしても絶対不可能な任務に直面していた。任務成功のため、最後の切り札として白羽の矢を立てられたのは、伝説のパイロット“マーヴェリック”(トム・クルーズ)だった。記録的な成績を誇る、トップガン史上最高のパイロットでありながら、常識破りな性格と、組織に縛られない振る舞いから、一向に昇進せず、現役であり続けるマーヴェリック。なぜ彼は、トップガンに戻り、新世代トップガンと共にこのミッションに命を懸けるのか?大空を駆け抜ける興奮、そして“胸熱”な感動がここに!スカイ・アクション最新作がついに公開!

実際に飛行機を飛ばしたり、爆破してみたり、それをカメラに収めるなんて、こんな馬鹿げたことがいつしか見られなくなる日が来るかもしれない。もしかしたらそう遠くない未来でこんな古くさい映画があって、と言われるかもしれない。

どっちが映画として優れているとかそういうことを言いたいわけじゃない。ただ、どうしようもなくこの映画には質感がある。スクリーンの前で座っているだけのはずなのに、感じることのない風や重力を身体に受ける。もちろん4DXでなくとも。前作から頻出する人物の肌が纏う"汗"は今作にも受け継がれている。無くても成立するけれど、絶対に無くてはならない生々しさ。

冒頭にピートに投げかけられる「未来はやってくる。でも、そこに君はいない。」という言葉は上に書いた通り、これまで映画と呼ばれたものに対する言葉のことかもしれない。今作もやっぱり古くさくて、前時代的かもしれないけれど、でもやっぱりどうしようもなくそれでしか得難い快楽がある。これを馬鹿でかいスクリーンと震えるほどデカい音の映画館で観なくてまじでどうすんだって思った。

 

 

 

5. わたしは最悪。

ユリヤは30歳という節目を迎えたが、人生はどうにも方向性が定まらない。いくつもの才能を無駄にしてきた。年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、しきりに身を固めたがっている。ある夜、彼女は招待されていないパーティに紛れ込み、若くて魅力的なアイヴィンに出会う。ほどなくしてアクセルと別れて新しい恋愛に身を投じ、人生の新たな展望を見出そうとするが――。

自分語りだけの感想になりそうだったので、見た後の熱が落ちるまでちょっと待ってみたけど、やっぱりめちゃくちゃ好きだ。

ユリヤはとにかく動き続ける。街を歩いたり走ったり車に乗ったりとにかく画面に入ってきたり消えたりする。でもどこに行っても目的地じゃないし何にもなれない。
何かになるってなんだ。誰かを選ぶってなんだ。おれもわかんない。わかんないよな。だからたまに不安になって誰かに寄ってしまう。

窓も印象的だと思った。窓越しに眺める街。もしくは窓枠の中に収まる人。ユリヤもまたカメラで誰かを枠の中に収めることを選ぶ。映画を見ている自分もスクリーンに収まるユリヤを見る。甘い言語化だけど、その行為に強い『個人』を感じた。気がする。

思うことはたくさんあるけど、とてもふわふわしててそれが心地良くもある。アクセルは自分の中では『アート』の擬人化だよなぁと思ったりしたこととか、時間が無常に過ぎていくことへの絶望のこととか。日本で言うなら坂元裕二アメリカで言うならアジズ・アンザリとの同時代性も強く感じる。『大豆田とわ子』であり『マスター・オブ・ゼロ』でもある。

 

 

 

4. 窓辺にて

フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)は、編集者である妻・紗衣が担当している売れっ子小説家と浮気しているのを知っている。しかし、それを妻には言えずにいた。また、浮気を知った時に自分の中に芽生えたある感情についても悩んでいた。ある日、とある文学賞の授賞式で出会った高校生作家・久保留亜の受賞作「ラ・フランス」の内容に惹かれた市川は、久保にその小説にはモデルがいるのかと尋ねる。いるのであれば会わせてほしい、と・・・。

今泉力哉の映画を見ているようで、別のものを見ているような感覚になる瞬間が多くあった。それはとても良い意味として。
その違いは、もしかしたら会話の密度を意図的に下げてることが大きな理由かもしれないし、何より稲垣吾郎の存在がそうさせてるのかもしれないとも思った。
そんなことを言っておきながら、見終わった後は今泉力哉映画以外の何者でもないという感覚にもなってしまう。これはまじで上手く言葉にできないけど、独特の寂しさがあった。

書いていてだんだんわかってきたかも。『街の上で』が荒川青の映画ではないのに対して(あれは自分の中では下北沢という街の映画)、今作は市川茂巳についてを143分間見る映画で、そんな茂巳が、此処ではない別の場所に行ってしまったような気がしたから寂しいんだと今思った。ただそれは空白みたいなものじゃくて、痕跡がある喪失感。だからより寂しい。

映画の中でも痕跡の話をしてると思った。それは何かを残すこととか、何かを手渡したりすることとか、ちゃんと話を聞くことの連続で描いてる気がした。後半続くタクシー、パチンコ、トランプ、写真、最後の喫茶店のシークエンスが信じられないくらいに良いのは、そういうことなのかも。

残すことの対比として、この瞬間にしか発生し得ないものである光がタイトルの通り窓辺にて印象的に撮られているのも映画的に強い。もちろんそこにも記憶がちゃんと残っているのも良い。良すぎる。

 

 

 

3. リコリス・ピザ

舞台は1970年代のロサンゼルス、サンフェルナンド・バレー。実在の⼈物や出来事を背景にアラナとゲイリーが偶然に出会ったことから、歩み寄りすれ違っていく恋模様を描き出す。

どうして人が走る映画は眩暈がするほど美しいんだろう。走る理由がしょうもなければしょうもないほど、その瞬間は何にも代え難い。これは映画でしか成し得ない。

間違いを繰り返すからこそゴールになんて辿り着かなくていいし、そもそもそんな"正しいひとつの結末"なんて放棄してしまえる。『わたしは最悪。』にも通底するテーマでもある。初めて会った二人が交わす「二回繰り返して言うよね。」にも通じる。

わたし達は繰り返す。右へ行ったり左へ行ったり、後ろ向きに進んでみたり。でも二人の再会のシーンは紛れもなく求め合う二人の意志がもたらした奇跡によるものだと言っていい。だからこそ右と左の両側から二人は進んできて抱き合う。

どの瞬間もなんてことはなくて、どの瞬間もしょうもなくて、だからこそどの瞬間も愛おしい。何度でも観たくなる。2時間近くずっと何見させられてんだの状況なのに最高。どうしようもない大人たちもむちゃくちゃ最高で、ブラッドリー・クーパー周りのシーンは劇場が大爆笑に包まれてて本当最高だった。それも含めて映画だった。アラナの瞳孔ガン開きバック走は多分何回見ても爆笑出来る。

 

 

 

2. カモン・カモン

NYでラジオジャーナリストとして1人で暮らすジョニーは、妹から頼まれ、9歳の甥・ジェシーの面倒を数日間みることに。LAの妹の家で突然始まった共同生活は、戸惑いの連続。好奇心旺盛なジェシーは、ジョニーのぎこちない兄妹関係やいまだ 独身でいる理由、自分の父親の病気に関する疑問をストレートに投げかけ、ジョニーを困らせる一方で、ジョニーの仕事や録 音機材に興味を示し、二人は次第に距離を縮めていく。仕事のため NYに戻ることになったジョニーは、ジェシーを連れて行く ことを決めるが...

二度見てより好きになった。なんならジェシーとジョニーが初めて対面するシーンでもう涙ぐんでしまった。途中にある「なんで録音してるの?」に対する回答のところとかは嗚咽が漏れてしまって咳でごまかした。
見直せば見直すほど細部の構成が巧いことに気付かされる。挿入される子供たちへのインタビューの内容が示唆的であったり、二人の並び方をはじめとした構図だったり。

一回目に見て思った覚える/忘れることへの視座が根源的に映画の存在自体とマッチしていてそこにひたすらグッときてしまう。あなたがこの時間のことを忘れてもいつか思い出せるように、この音を、映像を残しておく。

感情は刹那的で自分も刻一刻と変化していくけど、例えばこの映画を見返したときに自分はまた今日のことを思い出す。同時に誰かのこともきっと思い出す。会わなくなった人は自分のことも忘れるだろうな。なにかが自分を思い出すきっかけになったらいいな。

覚えているけど忘れてしまうことばかりだよね。映画も音楽もそう。だからこそ記録しておこうとするし、残したい。

余談だけど、劇場を後にするとき、後ろで話してた数人の「ちょっと難しい映画だったね。なんか良い感じだったけど。考えさせられるみたいな。早くレビュー見たい。」って話してる声が聞こえて。そんなに理解しようとしなくいい、わかんないままでいいよ、と心の中で強く思った。知らん誰かのレビューで自分のままならない想いを固めることなんてしなくていい。考えてもわからないものはわからないまま抱えて、いつか思い出したときに、ああこういうことだったのかもってなればいいよ。

 

 

 

1. ケイコ 目を澄ませて

嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にあ る小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつも りなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書き留めた会長宛ての 手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す――。

この映画にどんな言葉が合うのか、見てからずっと考えていた。考えたけど全然見つかる気がしない。ので散文的に思ったことを書くしかない。

なくなっていくものを繋ぎ止めようとする映画として、自分はとてもとてもこの映画のことを大事にしたいと思った。

この映画は音を大事にしていて、それは難しいニュアンスだけど"鳴っている"ことより、"リズム"としての音を大事にしてると思った。ミット打ちの音、縄跳びの音、電車の音。それらが映画を通して強く残る。リズムは染み付くものだ。身体に染みついたものは続けている限り消えない。

同時にやはり三宅唱は映像を信じている人だとも思う。これも難しいニュアンスだけど、映像の意味よりも価値を信じているような気がする。涙を煽ったり、感情に接続するような映像じゃなくて、もっと別の、なんだろ、視界の隅にあるかもしれないものを残してくれているような気がする。それは特に窓から差す光とか、部屋の隅の影だったりする。

涙を煽らない、とは言ったけど自分がこの映画の後半のある部分でぼろぼろ泣いてしまったのは、個人の残したテキストが記憶として続いてくことを映像として確かに示されたからだと思う。なくなっていくものを忘れないためには、身体の中に残すしかない。それは書くことだったり走ることだったり、あるいは映像を撮ることだったりするんだと思った。

人のまばらな北千住のアーケードのこととか、荒川河川敷の夕陽とか、久しぶりに会った友達との空気とか、自分の中にも忘れたくないことが沢山あるなぁと思い出させられた。