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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021年ベストムービー30 [11〜20]

20. ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男

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1998年、オハイオ州の名門法律事務所で働く企業弁護士ロブ・ビロットが、思いがけない調査依頼を受ける。ウェストバージニア州パーカーズバーグで農場を営むウィルバー・テナントは、大手化学メーカー、デュポン社の工場からの廃棄物によって土地を汚され、190頭もの牛を病死させられたというのだ。さしたる確信もなく、廃棄物に関する資料開示を裁判所に求めたロブは、“PFOA”という謎めいたワードを調べたことをきっかけに、事態の深刻さに気づき始める。デュポンは発ガン性のある有害物質の危険性を40年間も隠蔽し、その物質を大気中や土壌に垂れ流してきたのだ。やがてロブは7万人の住民を原告団とする一大集団訴訟に踏みきる。しかし強大な権力と資金力を誇る巨大企業との法廷闘争は、真実を追い求めるロブを窮地に陥れていくのだった……。

事実への言及に終始してしまいそうになるけれど、これがトッド・ヘインズの映画であるということを忘れたくない。
「キャロル」のオープニングシーンが排水溝のアップだったことを繋げてみると、やはり根底には沈められたものを(無いことにされたもの)を掬い出すという意志があると思った。タイトルの通り"水"というモチーフが重要なのはいうまでもない。
劇中のあるものが"溜まり続ける"もしくは"排出される"という表現は、汚水で澱んだ河川から生まれるものだけではなくて、人間の体制に対する姿勢としても同時に機能する。
声を上げた人に対して、彼らがどんな目線を送っていたか、その行動がどう変化したか、そして最後にはどうなっていったか。
どう考えても美談にできる話ではないし、最後にカタルシスだって得られない。トッド・ヘインズがカメラを向ければ、どうしたって諦めないことの善悪両面を炙り出してしまう。でもそれこそが自分が映画を見る理由だったりもする。

 

 

19. ドライブ・マイ・カー

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舞台俳優であり、演出家の家福悠介。彼は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻はある秘密を残したまま突然この世からいなくなってしまう――。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすなか、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…

言語化したいけどとても言語化できない。うう、悔しい。「寝ても覚めても」の時にも思ったこの映画のことが嫌いか好きかもわからないみたいな最強に心地よい観後感(こんな言葉はない)に襲われている。
今わかっているのは三浦透子が初めて出てきた瞬間の発声が素晴らしかったってこと。というかずっと声が良い。あとは音楽が流れ出す瞬間が全て良いってこと。椅子が倒れる音とか駐車場のブザーの音の残り方、映像との齟齬も良い。闇に消えていく岡田将生も良かったことも残しておきたい。

 

 

18. 偶然と想像

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『魔法(よりもっと不確か)』 撮影帰りのタクシーの中、モデルの芽⾐⼦(古川琴⾳)は、仲の良いヘアメイクのつぐみ(⽞理)から、彼⼥が最近会った気になる男性(中島歩)との惚気話を聞かされる。つぐみが先に下⾞したあと、ひとり⾞内に残った芽⾐⼦が運転⼿に告げた⾏き先は──。

『扉は開けたままで』 作家で⼤学教授の瀬川(渋川清彦)は、出席⽇数の⾜りないゼミ⽣・佐々⽊(甲斐翔真)の単位取得を認めず、佐々⽊の就職内定は取り消しに。逆恨みをした彼は、同級⽣の奈緒(森郁⽉)に⾊仕掛けの共謀をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。

『もう⼀度』 ⾼校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏⼦(占部房⼦)は、仙台駅のエスカレーターであや(河井⻘葉)とすれ違う。お互いを⾒返し、あわてて駆け寄る夏⼦とあや。20 年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。

映画の映画だと思った。『偶然と想像』って映画のことだと思った。
やっぱり濱口竜介はカメラをある場所に置いて人や景色を撮ること(撮れてしまうこと)の偶然性や、それを見た人の想像力を信じているような気がする。
あとは3遍どれも人が何かを演じることの危うさと優しさの両面を切り取っていると思った。特に3話『もう一度』の脚本はちょっと良すぎる。エスカレーターの高低差はそれだけで映画になる。
そういう意味で、他にも窓枠や扉はめちゃくちゃ象徴的だし、窓越しのやりとりもめっちゃ良い。

 

 

17. あのこは貴族

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東京に⽣まれ、箱⼊り娘として何不⾃由なく成⻑し、「結婚=幸せ」と信じて疑わない華⼦。20代後半になり、結婚を考えていた恋⼈に振られ、初めて⼈⽣の岐路に⽴たされる。あらゆる⼿⽴てを使い、お相⼿探しに奔⾛した結果、ハンサムで良家の⽣まれである弁護⼠・幸⼀郎と出会う。幸⼀郎との結婚が決まり、順⾵満帆に思えたのだが…。⼀⽅、東京で働く美紀は富⼭⽣まれ。猛勉強の末に名⾨⼤学に⼊学し上京したが、学費が続かず、夜の世界で働くも中退。仕事にやりがいを感じているわけでもなく、都会にしがみつく意味を⾒いだせずにいた。幸⼀郎との⼤学の同期⽣であったことから、同じ東京で暮らしながら、別世界に⽣きる華⼦と出会うことになる。 ⼆⼈の⼈⽣が交錯した時、それぞれに思いもよらない世界が拓けていく―。

一生忘れたくないシーンがいっぱいあった。
中華屋のほたるいかの一夜干し、夜の内幸町の2ケツ、風に飛ぶ白い帽子を追う石橋静河、逆車線を見つめる目線、ほかにもたくさん。
途中、日本橋の喫茶店で逸子が言う女性の分断についての台詞がやはり強く残る。たまらず映画を見終わった後に原作を買って読んだけど、原作ではそこまで踏み込んだ台詞ではなかったので、やっぱり意識的に入れた言葉なんだろうなあと。でも、それが映像としても散りばめられてるところが良い。それが自分の琴線に触れた最初にあげたシーンの数々なのかも。
あと別にこれは女性だからぐっとくる、とか男性だからわからないとか、そういうことじゃないと思うよ。それはもう想像力の話だし、それこそこの映画が一歩踏み出してるところでしょ。
「都市と地方」をテーマにする映画はこれまでもたくさん見られたけど、一方を極端に落とすことでしか相対化できていないものが多い気がして、地方出身者の端くれとしてはなんとも煮え切らない気持ちになることが多かった。
この映画はまったく交差しない(ように思える)ふたつが思いもかけない共通点を持つ、みたいなところを抽出していてすごく興味深かった。
門脇麦水原希子石橋静河山下リオ、4人全員素晴らしいのは言うまでもなく、自分は山中崇のポジションも上手く原作から改編されていてすっごく良かったと思った。絶妙な男性像。

 

 

16. tick,tick...BOOM!!

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30歳の誕生日を目前に控える、才能豊かなミュージカル作曲家。恋、友情、NYでアーティストとして生きるプレッシャーなど、人生の岐路に立つ彼の悩みは尽きない。

めちゃくちゃ良いけどそれ以上に言えることが今の自分にはなくてめっちゃもどかしい

 

 

15. Arc

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17歳で生まれたばかりの息子と別れ、放浪生活を送っていたリナは、19歳で師となるエマと出会う。彼女は大手化粧品会社エターニティ社で、〈ボディワークス〉という仕事に就く。それは最愛の存在を亡くした人々のために、遺体を生きていた姿のまま保存できるように施術(プラスティネーション)するもので、悲しみを乗り越えたい人々からの依頼は絶えることがなかった。一方、エマの弟で天才科学者の天音は、その技術を発展させ、姉と対立しながら「不老不死」の研究を進めていた。30歳になったリナは天音と共に、「不老不死」の処置を受ける人類史上初の女性となり永遠の命を得た。やがて、不老不死が当たり前となった世界は、人類を二分化していくこととなり、同時に混乱と変化を産み出していった。果たして不老不死が生み出した未来の先にリナが見たものとは・・?

自分でもなんでかよくわからないけど驚くくらい涙してしまった。身体が震えてくるみたいな感覚。なんでだろう。本当に説明ができない。
死からの解放のための不老不死が時間や生き方やあなたと私の関係を縛る。本当の解放はどこから来るのか。死/生の二項対立を超えた角度の終盤の展開と、その回答としての映像の見せ方に心底打ち震えてしまった。ラストの海のシーンのルックとかフランスのアート映画を見てるような感覚になった。
前半と後半での編集テンポややカメラの置き方、インタビューシーンで演技とドキュメントが揺らぐところ、ルックの違い(モノクロは抜きにしても)が時間感覚そのものをねじれさせる。(序盤から時代感覚が全くわからないのもすごい)
映画の語らなさ、わからなさ、歪さが全て詰め込まれているにも関わらずとても個人的な内面に潜り込んでくるこの異常さはなんでしょう。凄すぎる。

 

 

14. 逃げた女

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5年間の結婚生活で一度も離れたことのなかった夫の出張中、初めてひとりになった主人公ガミ(キム・ミニ)は、ソウル郊外の3人の女友だちを訪ね、再会する。バツイチで面倒見のいい先輩ヨンスン、気楽な独身生活を謳歌する先輩スヨン、そして偶然再会した旧友ウジン。行く先々で、「愛する人とは何があっても一緒にいるべき」という夫の言葉を執拗に繰り返すガミ。穏やかで親密な会話の中に隠された女たちの本心と、それをかき乱す男たちの出現を通して、ガミの中で少しずつ何かが変わり始めていく。

むちゃくちゃ面白い。ほんとこういうものを見てしまうと、映画ってこれだけでいいとか思ってしまう。
窓枠の中と外とか、男性の背中とか、雑なズームとか、どれもすでに多くの人によって語られていることなのでそれは自分が語り直すまでもない。
それでも言いたいくらい好きだったのは、防犯カメラのモニターを除くという行為や、はたまたインターフォンのモニターを除くこと、最後は映画のスクリーンを見るということ。
いつだって私たちは枠の中で起きることに"見る"という反応を見せてしまう。そこで起きていることを何もわからないのに。

 

 

13. 映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園

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嵐を呼ぶ“永遠の5歳児”のはずが、しんのすけとその仲間たち・カスカベ防衛隊がなんと学帽をかぶり制服姿で学園に体験入学することに! そこでカスカベ防衛隊を待ち受けるのは、汗と涙の青春!…のはずが、多発する謎の怪事件に巻き込まれてしまう…!

捉えてる範囲の広さと、映画としてそれを伝える手段のバリエーションがあまりに巧いうえに品があるというか、衒いがまったくないし、尚且つ「クレヨンしんちゃん」だからこそ描けることと方法であるということに面食らったというか素直に感動した。
まじでいつまでもオトナ帝国、戦国とか言ってられないというか、見てない作品もあるけれど普通にシリーズぶっちぎりで良かった。
素行を監視され功績をポイント化し生徒の階層を分ける天カス学園は資本主義社会そのものだし、とかまぁこんなことはぶっちゃけ本当にどうでもいい。そこに属するいわゆるエリートと呼ばれる生徒たちのグラデーションに注目したい。
自分が知っている今までのアニメだったら、見た目のタイプはさまざまであれ普通に良い子たちが揃っていることを想像する。
しかし本作でNo.1エリートに君臨するのは普通に勉強し、普通に気を遣って生活していたら良い子とされていた男の子だし、No.2の女の子は才能が溢れているので素行不良でポイントが引かれることすら厭わないギャルなのだ。このリアリティとバランス感覚よ。しかし、二人ともというか虐げられる側のカス組ですらこの構造に不満を唱えない。
無駄は排除され効率とルールだけが横行する世界、とても見覚えがある。
「皮肉じゃ世界は救えない」というのは先に公開されるクロエ・ジャオの『エターナルズ』の台詞だけれど、すでにそれを実践してるというか、誰かの努力を冷笑する世界なんてほんとに最悪じゃないですか。終盤にかけてある人が自分のトラウマに向き合い、自分を肯定していく様子があまりに刺さりすぎてここ最近で一番胸が熱くなった。

あなたの価値はあなたのことを笑う人になんて決められる必要はない。ってことが劇場に沢山いるこどもたちに伝わっているんだとしたらこんなに幸せなことはないし、自分にも子供がいたら真っ先に伝えてあげたい。

そこで終わっても良いものをもう一発山場を用意するとか、おれを涙で涸らそうとしているのかな?
そこで描かれるのは、ブックスマートやThe Half of Itとかとそう変わらない。いつか別れることになるとしたら、友情に意味はないのだろうか?いや、決してそんなことはない。ということを言葉なんて使わずに行動と二人の位置と、決着の付け方で示してみせる。はぁ。。完璧だ。。
いやね、こんなことクソ真面目に書いてるのもアホらしいんですよ。だって「クレヨンしんちゃん」ですよ?普通にめっちゃ笑うもん。この歳になっても普通に笑う。クレヨンしんちゃんって謎のディテールの面白さだったんだなぁ。だって野原家に「色即是空」って書かれた掛け軸があるんすよ?ひろしが飲んでる缶ビール「半生」ですよ??学園長の名前「膨萩椋美(ふくらはぎむくみ)」ですよ????笑うでしょこんなん。

 

 

12. モンタナの目撃者

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過去に悲惨な事件を目撃したことで心に大きなトラウマを抱える森林消防隊員ハンナは、ある日の勤務中、目の前で父親を暗殺者に殺された少年コナーと出会う。コナーは父親が命懸けで守り抜いた秘密を握る唯一の生存者であるため、暗殺者に追われる身となっていた。コナーを守り抜くことを決意するハンナだったが、2人の行く手に大規模な山林火災が立ちはだかる。

前作「ウインド・リバー」の雪から対になる炎。共通するのは罰を自然に委ねるということ。でもやっぱり人間の底にある生への執着のようなものをテイラー・シェリダンは描き続けていくんだろうと思わされた。
それと併せて100分近く緊張感を維持する撮影と編集も水準が高い。
なんとなく空気的に大作に埋もれてしまいそうな気がするけれど、何よりも見落とされてほしくない一本ではある。

 

 

11. 街の上で

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下北沢の古着屋で働いている荒川青。青は基本的にひとりで行動している。たまにライブを見たり、行きつけの古本屋や飲み屋に行ったり。口数が多くもなく、少なくもなく。ただ生活圏は異常に狭いし、行動範囲も下北沢を出ない。事足りてしまうから。そんな青の日常生活に、ふと訪れる「自主映画への出演依頼」という非日常、また、いざ出演することにするまでの流れと、出てみたものの、それで何か変わったのかわからない数日間、またその過程で青が出会う女性たちを描いた物語。

俯瞰が欠如した街の映画である。悪い意味で言っていない。社会を描き出そうとする映画が社会を描く必要がないように、この映画では存分に"人"にフォーカスする。それがすべて。人がすべて。人の映画は街の映画になるし、街の映画は時代の映画になる。
その証拠に冒頭、夜の下北沢の路上に立つ荒川青を捉えたショットだけで涙ぐんでしまった。だってもうあの頃の下北沢はないから。好きだったお店もなくなってしまった。あの人ももういなくなってしまった。

期せずして2020年から2021年という完全に断絶された1年を跨いで延期されてしまった事実がこの映画が内包する「なかったことにしない」というテーマと共振する。
この一年でなくなってしまったものや場所のことも、なかったことにしないようにこの映画は在る。(時間、というのも大事なテーマである。留守電を使った時間差の演出やラストに回収されるケーキの描写も決まってる。)

人の映画である、を体現するように全ての出演者の魅力がむちゃくちゃに溢れている。若葉竜也はもちろんのこと、4人のメインキャスト女性陣は全員があまりに素晴らしすぎて全員好きになってしまう。
とりわけ城定イハを演じる中田青渚さんはまじでヤバい。ヤバいとしか形容できないヤバさ。あの眼球の引力よ。あの発話よ。イハの部屋での青との二人の会話長回しはまじでヤバい。部屋から出ていく彼女が去り際に残した台詞とその表情、カーテンを開けて朝日を浴びる彼女の表情、まじでとんでもないので絶対見てください。

なんだか久しぶりに満員の映画館で大爆笑する空気を味わった。この空間が好きだったなぁというのを思い出した。

2021年ベストムービー30 [21〜30]

映画のことを考えた1年だった気がする。それは映画がなくならないようにとか、映画館を守りたいとかそういうことよりも、"映画ってまじでなんなんだ"っていうもっともっと根源的な疑問に近い想い。劇場公開から配信までのスピードは格段に上がって、なんなら配信が劇場公開を追い越すみたいな瞬間も多々あるなかで足繁く映画館に通うのってなんなんだろう。そんなことを考えていると自分は今まで"映画"を見ていなかったような気がしてきた。それは数の話じゃない。もしかしたら今まで自分はスクリーンに投影される映像を見て物語を読み解いていただけなのかもしれない。今年公開された映画が何が革新的に変わったわけではないけれど、それでもこうやって30本並べて振り返ると"そうではない何か"として映画の輪郭が立ち上がってくるような気がしてならない。もっともっと計り知れない存在としての映画が。

とても主語がでかい上に感覚的な話をしているようだけど、言ってしまえばまじで映画なんて"何がどう映っているか"だけでしかないような気がする。そこにもっと根源的な快楽があるような気がする。置いてあるカメラの前を誰かが横切るだけでそれはどうしようもなく映画として成立してしまう。それでもカメラのレンズやスクリーンを通して自分や、もしかしたらもっと未来の自分、ともすれば過去の自分、ありえたかもしれない存在しない自分と映画が結びつく瞬間が必ずある。そこには伏線も結末も説明も必要ない。たった一瞬でも繋がれる瞬間があればいい。それは決して共感みたいなつまらないものじゃない。彼女はなんであの時何も言わなかったんだろうとか、彼はなんであの時煙草を吸ったんだろうとか、あの人はなんでいなくなってしまったんだろうとか、そういう想いだけでいい。多分その瞬間を求めて自分は映画を見ているし、いつまでも見るのだと思う。同時にそれはとても罪深い行為な気がしてならない。誰かにカメラを向けるということは四角い枠の中に誰かを閉じ込めてしまうことにもなる。フィクションだから、とか関係ない。映画の中にいるあの人はいつかの自分か、もしくはいつかの誰かという光源から発された光がスクリーンの上に結んだ実像(あるいは虚像)なのだから。

もちろん、作品とは別のところで映画業界を取り巻く腐った土壌(こと日本に関しては特に)に辟易する瞬間も多くある。労働環境は一刻も早く是正されるべきだし、映画を好きな人だけが損をするような上映形態ははっきりと意味がわからないし、ゲロ吐きたくなるほど前時代的で無自覚に人を傷つけるような映画が未だに存在したりもする。それでも自分は自分から映画が切り離せない。同じだけ救われる瞬間がやっぱりあるから。

めちゃめちゃ感情的になってしまったけど、並べた作品、特に個人的にめちゃくちゃ好きなトップ10本を見てるとそんな気持ちになってしまいました。今年は劇場で見た62本が分母。トップ30ってほぼ半分じゃん!と言いたくなるけど、好きな映画はやっぱ挙げたいじゃん!ということで結局絞りきれずこれ。ベストに関しては映画として確実に面白いことを前提として、2021年にこの1本をトップに置かずにはいられなかった。では、以下見た当時の感想とともに並べます。

 

 

30. レミニセンス

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都市が海に沈み、水に支配された世界で、〈記憶潜入エージェント〉として暗躍するニックに、検察から仕事が舞い込む。新興勢力のギャング組織の男が瀕死の姿で発見された。 彼の記憶に潜入し、ギャングの正体と目的を掴めという依頼だ。彼の記憶から映し出された、事件のカギを握る謎の女性メイを追って、多くの人々を記憶潜入(レミニセンス)するニック。 だが、膨大な記憶と映像に翻弄されたニックは、予測もしなかった陰謀へと巻き込まれていく──。

誰かの過去を追うためだけに一方的に記憶に入り込むなんてプロットいくらなんでも既視感ありすぎる…めちゃくちゃナレーション多いし…と思って途中まで辟易としていたら、まさか過去との双方向のやりとりが訪れる瞬間がやってきて心底グッときてしまった。
結末じゃないある一瞬のために奉仕する映画があったっていいと思わされたし、壮大だと思ってた物語が実はとても個人的なものだっていうのは、映画なんてみんなそういうもんでしょと自分は思います。

 

 

29. マリグナント 凶暴な悪夢

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ある日を境に、目の前で恐ろしい殺人を目撃するという「悪夢体験」に苛まれはじめるマディソン。予測不能な素早い動きと超人的能力で、人々を殺していく漆黒の殺人鬼。彼女が夢の中で見た殺人の数々は、現実世界でも起きてしまう――。 殺人が起きる度、マディソンはリアルな幻覚かのように殺人現場を疑似体験し、少しずつ自身の秘められた過去に導かれていく。そして、ついにその邪悪な手がマディソンの元へ届くとき、その“狂暴な悪夢”の正体=G が明らかに…!?

流石、ホラーの教科書ジェームズ・ワンとつまらない言い方でまとめてしまいたくなる。
照明の点滅、地面を這うスモーク、扉の向こうの何もない漆黒と古典的なホラー映画の要素で楽しませつつ、物語として驚きを用意しておくのはまじですごい。中と外という基本的な構造が実は物語全体の非常に重要な要素になっている。外からの侵入者、窓越しに照らす赤いライト、外かと思ったら中だった、の驚き。そして鍵を閉める、という動作の反復と反転。
なおかつ、邪悪を解き放つのは有害な男性性であるという時代を眼差す視点があるのも良い。
意地悪なことを言うとしたら、鍵をかけるという着地のさせ方とは違った解決も見たかったかもしれない。

 

 

28. BLUE

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誰よりもボクシングを愛する瓜田は、どれだけ努力しても負け続き。一方、ライバルで後輩の小川は抜群の才能とセンスで日本チャンピオン目前、瓜田の幼馴染の千佳とも結婚を控えていた。千佳は瓜田にとって初恋の人であり、この世界へ導いてくれた人。強さも、恋も、瓜田が欲しい物は全部小川に奪われた。それでも瓜田はひたむきに努力し夢へ挑戦し続ける。しかし、ある出来事をきっかけに、瓜田は抱え続けてきた想いを二人の前で吐き出し、彼らの関係が変わり始めるー。

とても良いです。そりゃ良いよね。何はなくとも松山ケンイチ。と胸に刻んでいたことを思い出した。東出くんも柄本時生もむちゃくちゃ良い。
吉田恵輔が手持ちカメラで夜道を歩く人の背中を捉えただけで、とても不安に駆られることも思い出した。でも今作ではその逆の、光が当たるシーンがとても良い。
上半身と下半身が必ずカットを分けるように、感情と身体はすれ違ってまた重なる。やめようと思ってもやめれない/それでも勝手に動いてしまう身体。

 

 

27. パーフェクト・ケア

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法定後見人のマーラは、判断力の衰えた高齢者を守り、ケアすることが仕事だ。常にたくさんの顧客を抱え、裁判所からの信頼も厚いマーラだが、実は彼女は裏で医師や介護施設と結託して高齢者たちから資産を搾り取る悪徳後見人だった。パートナーのフランとともにビジネスは順風満帆。まさに“アメリカン・ドリーム”を手に入れたマーラだったが、突如その目前に暗雲が立ち込める。新たに獲物として狙いを定めた資産家の老女ジェニファーをめぐって、次々と不穏な出来事が発生し始めたのだ。そう、身寄りのないはずのジェニファーの背後にはなぜかロシアン・マフィアの影が!!迫りくる生命の危機、まさに絶体絶命。「私に“負け”はない」と豪語するマーラの運命は果たして―!?

今年この映画以上に1分先に何が起こるかわかんない映画なかったかもしれない。映画のスタート地点からゴール地点までの飛距離がとんでもないかと思わせといて、実は最初のアレが…なのもめちゃくちゃ良い。映画はこうあるべしみたいな気持ちになっちゃう。
「銃や脅しじゃなく法廷で私に勝って見せなさい」って言ったのはマーラなんだよなあ。とか。でもあの森を空撮で捉えるカメラとかは何度だって這い上がる人の底知れない生命力みたいなものを感じたりするんだよなあ。とか。ひとつの映画から見える側面が多すぎて楽しすぎる。

 

 

26. すばらしき世界

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下町の片隅で暮らす三上(役所広司)は、見た目は強面でカッと頭に血がのぼりやすいが、まっすぐで優しく、困っている人を放っておけない男。しかし彼は、人生の大半を刑務所で過ごしてきた元殺人犯だった。社会のレールから外れながらも、何とかまっとうに生きようと悪戦苦闘する三上に、若手テレビマンの津乃田(仲野太賀)と吉澤(長澤まさみ)が番組のネタにしようとすり寄ってくる。やがて三上の壮絶な過去と現在の姿を追ううちに、津乃田は思いもよらないものを目撃していく……。

出所前に返却された三上の腕時計は錆びつき、再び時間を刻むことを拒んだ。冒頭で提示されるそのシーンだけで三上を待つ社会の生き辛さを予感させる。
元犯罪者の再出発を描くとなると、とかく社会制度の破綻や周囲の人間の目がフォーカスされがちだし、実際そういう映像作品は見たことがあるけれどこの映画の主軸はそこではない。あくまで「三上正夫」という一人の人間の輪郭を掴もうとすること、それに徹している。放っておけば簡単に無いことにされてしまう一人の人間の存在を記録し、形作ること。それは自ずと社会の輪郭を浮かび上がらせることにも繋がる。
人間の輪郭を掴む、ということはその人物を善/悪でカテゴライズしたりルーツを明らかにすることではなくて、内面に潜む凶暴性やその逆の優しさに等しく目を向けることだ。
この映画はそれをカメラを置く位置や被写体深度で表現してみせる。
一方で映画の技術とは逆行するように津乃田はレンズから目を外すことで三上の輪郭を掴もうとする。三上の表情や目や言葉ではなく、その反対にある「背中」に触れた時、恐らく津乃田は初めてそれを叶えたのではないだろうか。
しかし、その手からもするりと「三上正夫」という人間の存在は零れ落ちてしまう。
それでも津乃田はきっと再び掬い上げるように文字を何度も連ねて三上の存在を浮かび上がらせるだろう。この映画がそうであるように。
もうひとつ。三上正夫という人間もまた、ある存在を無いことにしないようにラストにある物に手を伸ばす。こういう行動こそ、ぼくらの生きる澱みきった世界をギリギリなんとか「すばらしき世界」と呼べる(かもしれない)理由になるだろう。

 

 

25. ファーザーf:id:moire_xxx:20211227170132j:image

ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニーは記憶が薄れ始めていたが、娘のアンが手配する介護人を拒否していた。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受ける。だが、それが事実なら、アンソニーの自宅に突然現れ、アンと結婚して10年以上になると語る、この見知らぬ男は誰だ? なぜ彼はここが自分とアンの家だと主張するのか? ひょっとして財産を奪う気か? そして、アンソニーのもう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? 現実と幻想の境界が崩れていく中、最後にアンソニーがたどり着いた〈真実〉とは──?

映像表現としてこんなにスリリングでおぞましいことが出来るんだ…と心底震え上がってしまった。
テーマに終始していてもおかしくないのに、ラストで一段次元が飛躍するのもすごい。いや、なんかもう素直にすごいとかやばいとかしか言えなくなってる。だってラストのあの会話の中で部屋の外にカメラが向かっていくんですよ?あれだけでこの映画の飛距離というか届く場所が一気に拡大していくというか、なにも特別な対象に向けて描いた映画じゃないってことにもなるじゃないですか。誰しもいずれはああなっていくってことじゃん?そうなるのが怖いと言うより、なんというかその無情(無常)さというか、この感覚は「かぐや姫の物語」とかにも近い。自分は底知れない恐ろしさを感じた。

 

 

24. DUNE/砂の惑星

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全宇宙から命を狙われる、たった一人の青年、ポール・アトレイデス。彼には"未来が視える"能力があった。宇宙帝国の皇帝からの命令で一族と共に、その惑星を制する者が全宇宙を制すると言われる、過酷な<砂の惑星デューン>へと移住するが、実はそれはワナだった!アトレイデス家と宇宙支配を狙う宿敵ハルコンネン家の壮絶な戦いが勃発。父を殺され、巨大なサンドワームが襲い来るその星で、ポールは全宇宙のために立ち上がるのだが…

IMAXで見た、という体験においてはこれ以上ない時間と空間だった。上空に浮遊するハルコンネン男爵や飛び立つ機体、立ち上がる砂の波や爆撃の落下等々これは縦長のスクリーンで見なきゃまじで別物では?と思わざるを得ない。
しかしそれが映画としての評価のすべてになるのかというのには迷いがある。
そりゃそうだろ!もうそれだけでいい!って気分と、いやでもじゃあそれ抜いたら物語として新鮮味あんのかって言ったらやっぱりそれは感じられないのよなあ。
時代から切り離されている、ということにも意味や意義のある作品のような気もする。

 

 

23. ラストナイト・イン・ソーホー

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ファッションデザイナーを夢見るエロイーズは、ロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学する。しかし同級生たちとの寮生活に馴染めず、街の片隅で一人暮らしを始めることに。新居のアパートで眠りにつくと、夢の中で60年代のソーホーにいた。そこで歌手を夢見る魅惑的なサンディに出会うと、身体も感覚も彼女とシンクロしていく。夢の中の体験が現実にも影響を与え、充実した毎日を送れるようになったエロイーズは、タイムリープを繰り返すようになる。だがある日、夢の中でサンディが殺されるところを目撃してしまう。さらに現実では謎の亡霊が現れ、徐々に精神を蝕まれるエロイーズ。果たして、殺人鬼は一体誰なのか、そして亡霊の目的とは-!?

オープニングシークエンスからのロンドンへ向かう電車の中でBeatsのヘッドホンをつけるエロイーズを捉えた画面でもう間違いがない。
映画や音楽を「今、此処ではないどこか」として捉えることの希望を描くのと同時にその悪夢性をを表出させていく。
しかしそれは同時に60年代と今がなんら変わっていないということでもある。性搾取や、男性の女性に向ける視線もそう。しかしエドガー・ライトのことなのでひたすら露悪的に展開させていったら嫌だなぁという予感が見ていてしたけど、終盤でちょっと驚いてしまう"視点の揺らぎ"が見えてむちゃくちゃ良かった。
"Help me"とあの場面であの人物に言わせることの両義性にこそ自分は注目したい。

 

 

22. 映画大好きポンポさん

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敏腕映画プロデューサー・ポンポさんのもとで製作アシスタントをしているジーン。映画に心を奪われた彼は、観た映画をすべて記憶している映画通だ。映画を撮ることにも憧れていたが、自分には無理だと卑屈になる毎日。だが、ポンポさんに15秒CMの制作を任され、映画づくりに没頭する楽しさを知るのだった。 ある日、ジーンはポンポさんから次に制作する映画『MEISTER』の脚本を渡される。伝説の俳優の復帰作にして、頭がしびれるほど興奮する内容。大ヒットを確信するが……なんと、監督に指名されたのはCMが評価されたジーンだった! ポンポさんの目利きにかなった新人女優をヒロインに迎え、波瀾万丈の撮影が始まろうとしていた。

映画やドラマを語る上で、あまりに「物語」が絶対的な権力を持っているような空気を感じる。
考察、伏線回収、綺麗な着地、整合性、辻褄、もちろんそれもひとつの楽しみ方だけど、それだけで終わらせるというか、それしか視点がないのは辛すぎる。映画ってそういうもの?
なんかいろんなレビューでこんなことばっか書いてる気がするな、自分。
この映画では「物語」の上で「編集」を語る。
自分は映画はショットの連なりと編集こそがその最たる魅力だと思って見ているので楽しくて仕方なかった。
自分の思う編集のマジックとは、時間も場所も視点も飛び越えられるということ。
もう二度と会えない誰かに会え(ているように見え)たり、届かないままの言葉が届い(ているように見え)たりすること。自分はそういう瞬間に居合わせたくて映画を見ている。
実際この映画もカットの繋ぎ目、編集点には気を遣いすぎてるくらい気を遣っていて、その一つ一つがいちいち面白い。(ワイパーでカットが切り替わったりするところとか)
しかし、この映画はその編集からこぼれ落ちたものにこそ想いを馳せる。幾重にもデリートされた選択肢の残骸に上にたった一つの映画や、音や、もっといえば人生があるということ。それでも人は愛を持って、切る。だからこそ残ったひとつを大切にできる。
それって誰かの才能とか権力じゃどうにもならなくて、如何に自分と向き合えるか、しかないと思う。その強度によって良い映画とそうでないものが分けられるわけだし。
という具合に"選択肢"映画フェチの自分がこの映画を愛さずに誰がこの映画を愛す、とか思ってしまうくらいには好き。
自分の中でこの映画は、映画作り映画じゃなくて自分を見つめることの映画だった。自分が何が好きなのか、何を選んできたのか、何を選んでいくのか、そういうことだと思う。
ここからは自分の好みだけど、だからこそ到達点はトロフィーじゃなくでも良かったのでは?という気もしなくもない。形じゃなくてもっと大事な結果が充分あったと思うから。
ナタリーの演技メソッドにはもう少し時間を割いてほしかったり。あてがきだからということ意外にもナタリーの役者としての魅力もあるはず。ここも歯がゆい。

 

 

21. エターナルズ

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アベンジャーズ/エンドゲーム」は、始まりに過ぎない── 地球に新たな脅威が迫るとき、7000年にわたり人智を超えた力で人類を密かに見守ってきた、10人の守護者がついに姿を現す。 彼らの名は、エターナルズ。だが、地球滅亡まで残された時間はたった7日。タイムリミットが迫る中、彼らは離れ離れになった仲間たちと再び結集し、人類を守ることができるのか? そして、彼らを待ち受ける<衝撃の事実>とは…アベンジャーズに次ぐ、新たなヒーローチームの戦いが始まる!

個人的にはMCU史上屈指の傑作だと思った。
好き!大好き!みたいな興奮とは別の評価軸で大事にしたい一作になった。
というのも、紀元前から現代にわたる人類史の歴史だったり創造主的なものの存在だったり、ただただスケールのデカいものを描いていながら、根幹には「大丈夫。あなたはやれる。」だけが根付いていることにとても意味があると思うから。
飛行機の中でキンゴにドキュメンタリーを撮ると言われてカメラを向けられたときの一連の流れを思い出したい。あの場面で彼女は自分の持つ力についてどう話していたか。そしてそれがどのように変わっていったか。反面、イカリスはどうだったのか。一件ユニークな会話に思える"能力"にまつわる会話の中に込められた"可能性"を閉じてしまう自己/他者からの抑圧についても見逃したくない。
そして、最後には選択を社会や組織から切り離して"個人に委ねる"という瞬間がそれぞれに訪れている。これがまさに過去作から通じるクロエ・ジャオの映画の矜持だと思う。(馬に乗る、太陽が人を照らす、というのもそうでしょう)
忘れる/忘れない、見守る/見過ごす、やり遂げる/諦める、が個人のベースで選択され、それがつまらない善悪で断罪されないという終盤の展開にかなり身を乗り出して見てしまった。どの瞬間も良い。
2時間30分以上あってもまだまだ捌ききれてない要素や人物がいるのも事実だし、場面転換のテンション差があまり気持ち良くないように感じる部分もあったけど、この10人を揃えてMCUの新作を撮ったことは何にも代え難い意義があるし、どの役に誰をあてるのかも見事。セナの役柄とアンジーのマッチングや、マ・ドンソクが演じるギルガメッシュがどんなタッチで描かれているかについて、まだまだ言い足りないくらい結構興奮しててびっくりしてる。