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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

魔法少女が見たものは - 『カルテット/第3話』

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どうしたものでしょう。いくら坂元裕二好きとは言え、いくら満島ひかり好きとは言え、こんなに素晴らしいものに火曜の22時にテレビをパッとつけただけで巡り合っていいものだろうか。其れ相応の機関があるのだとしたらどうかお気持ちの一つでも受け取ってくだせえ。とにかく「カルテット」の第3話はとんでもなかった。もう正直ちゃちな感想なんぞ書きたくない。書きたくないのだけど、書かなかったらそれはそれで気持ち悪いのでとりあえず。

 

3話目にしてようやく気づく。そうか。これって家族の話なんだ。第1話の中心となったからあげ然り、第2話の冒頭を飾ったブイヤベース(と餃子)然り、チャーシュー丼にアイスに食にまつわるシーンのなんと多いこと。第3話では四人で鍋を囲んで湯豆腐をつついている。しかも決まって主菜は一人分を小分けにはせず、食卓の中心にある大皿もしくは鍋からそれぞれがよそっていく形だ。それぞれが顔を突き合わせて。ああ。なんてことはない。もうこれは家族だ。この食卓一つ取っても四人が(擬似)家族を形成しているのは間違いない。そう思って見てみるとそれぞれのポジションも、子供を注意するけど話題の提供や持論の主張は欠かさない父親→家森さん(まさしく家守!)、穏やかなようでいて内に様々なものを抱える母親→巻真紀、奔放な子供たち→すずめと別府さん、みたいに一つの家族に当てはまる。

しかもどうやら彼らは、それぞれに家族からはぐれてしまった背景を持っているようだ(次回予告の家森さんもそれを匂わせていたような)。そんな彼らや彼女たちが寄り添い、顔を向き合わせて家族になる。そうか。そんなカルテットだったのか。

 

顔を突き合わせる。第3話を推進したシークエンスはこれじゃないだろうか。例えば、冒頭に有朱はすずめちゃんにペットボトル一本分の距離という誘惑を指南する。その後別府さんのベッドに忍び込んで誘惑を実践するすずめちゃん。しかしこの時の2回目の「いただきます」の破壊力はなんだ。そしてそれを受ける松田龍平の背中はなんだ。おっと、話を戻す。例えば、巻真紀がすずめちゃんを餅つき大会に誘う場面では二人は背中合わせになって会話をする。病院から出た巻真紀とすずめちゃんは道路を隔てて対岸に並ぶ。埋めようのない距離の如く二人を隔てようとする。しかし、巻真紀の振り絞ったすずめを呼ぶ声は距離を越えて届く。巻真紀に気づいたすずめの手の上げ方。(ああこれは洋貴と文哉だなあなんて思ったりもした。)

 

はい。そして舞台は増田屋という名の蕎麦屋さんへ(実在するのね)。正直、ここからのシーンは言葉にするのも惜しいので見て感じるに限るような気がする。まさか稲川淳二の声が誰かの気持ちを代弁しようとは。背を向けて語る誰かの過去がそれを見つめる誰かに伝わるとは。超えられないと思われた距離をつなぐのは何なのか。ネクストレベルのその先の先くらいまでひょいっと行ってしまった坂元裕二よ。もう一生ついて行きます。そしてこの台詞を放つ際の松たか子の声や表情の寸分狂わぬ完璧さよ。

「すずめちゃん。病院行かなくていいよ。カツ丼食べたら軽井沢帰ろう。」

「いいよいいよ。みんなのとこに帰ろう。」

かつて偽者の魔法少女と揶揄された少女にかけられた呪い。家族という枠組みもまた一つの彼女にかけられた呪いだ。いや、誰にだってそれは呪いになりえる。そんな呪いを解くことができるのは血の繋がりなんかではなく、同じシャンプーを使って、同じ食卓で顔を突き合わせて同じご飯を食べる赤の他人しかいないのかもしれない。このテーマに傑作『夫のちんぽがが入らない』を関連付けることはやはり避けられない。「家族なんだから」と枠の外から誰かが言うのは簡単だ。悪意もないだろう。でも誰かのあたりまえは別の誰かのあたりまえにはなりえない。そんな呪いはもう解いてしまおう。

魔法少女はあのロッカーのなかに何を見ただろう。透視能力はインチキだったかもしれない。しかし、彼女が手を振るその先にはきっと。

 

そういえば巻真紀は第1話の中でこんなことを言っていた。

「音楽と一緒に暮らしたいです。」 

すずめちゃんが白い髪の老人からもらったチェロ。彼女はこう話す。

「チェロは私の手には大きくてなんだか懐かしくて、守られてる気がしました。」

「そっか。あなたは私より長く生きるんだ。じゃあそうだね。ずっと一緒。一緒にいてねって、約束しました。」

まさにこれこそ、すずめがチェロと共に、すなわち音楽とともに生きていくことを決意した瞬間だろう。そう考えると巻真紀にとって、いや彼ら4人にとって4人で暮らすことは、まさしく音楽と暮らすことでもあるのかもしれない。

 

 



 

それもまた行間 - 『カルテット/第2話』

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いやね、ブイヤベースと餃子の話から唐突に始まるドラマがありますかね?しかもそれがめちゃくちゃ面白いときたからもうね。こんなに瑞々しい会話たちが毎週見れるなんて嬉しすぎる。きっと餃子の話も「秘密を包み隠した」4人が話すから面白いのだろうな。のっけからこういうところが本当に見ていて楽しい。目が活きる。

 

さーて。今週は家森さんの口から「行間案件」なるものが飛び出しました。

「好きな人には好きって言わずに会いたいっていうでしょ?」

「会いたい人には会いたいって言わずにご飯行きません?っていうでしょ?」

「言葉と、気持ちは、違うの」 

うんうん。まさにこのドラマがやろうとしていることだと思う。人が会話をする、その真意。例えば第1話での「唐揚げにレモンをかけるか」なんてまさにそう。言葉の表層だけでなくてその先、そしてその隙間にこそ人の気持ちが宿るはず。それならば今回はそれに従って振り返って見たい。

 

実は今回、各所に「円」が点在していた。物語の象徴として通底する「ドーナツ」はもちろんのこと。例えば冒頭、スーパーの駐車場に置き去りにされた石を拾ったことをきっかけに唐突に始まる「カーリング」。あれはドーナツの穴を埋めるが如く「円」の中に石を入れていく4人1組のスポーツな訳です。石を投げる、別の何かを弾き穴を埋める。何か別のものを弾き出して自分たちを円の中に入れるという動作は、まさしく第1話で彼らのとった行動そのものじゃないだろうか。きっとそんな意味がその隙間にはあるはず。もしかしたらただ軽井沢カーリングの施設があったから…なんてこともあるかもしれないが、そんなことを言うのは野暮だ。物語の冒頭にこのシーンを挿し込むのにはきっと意味があるはず。しかも、第1話でのワゴンにペイントを施すシーンよろしく4人で活動をするシーンではなぜか3人は転んでしまうのですね。(勿論演奏シーン以外で)

 

例えば別府さんから突然の告白をされた巻真紀が話す「花火」はどうでしょう。これも「円」じゃないですか?しかもそこには「ぬか喜び」という意味まで付随してくる。巻真紀は言う。

「私、結婚するまで花火って見たことなかったんです。」

「火じゃないですか。火を空から撒き散らすんですよ。絶対火事になると思って怖かったんです。」

 

「花火ってこんな簡単に消えるんだ」

「綺麗だなって思った時にはもう消えてるんだ」

台詞だけ聞くと巻真紀は花火が嫌いなのか、とも思えるけどきっと違う。失踪した夫と見た花火は彼女にとってただの火でも、消えてしまうものでもなくて、「誰かと手を繋いで見たもの」になっているんじゃないだろうか。花火は散って消えていくことに意味があるし、花火が消えてしまってもそれを「美しい」と思った気持ちや記憶は消えない。それで言うと、別府さんは若干悍ましさすら覚える巻真紀への好意は消えてしまったわけだけど、最後にそれはどうなりましたか?ただ消えてしまっただけでしたか?否。「私、宇宙人見ました。」というなんともチャーミングな台詞によって、消えてしまったけど別府さんと巻真紀の間に確かに在ったその時の気持ちは残っているはず。

 

一方で別府さんと九條さんの関係もまた消えていくわけですが、それもまたただの別れではなく「寒い朝にベランダでサッポロ一番食べたら美味しかった」という到達点を迎える。あのシーンの色味といい、衣装といい、菊池亜希子の声といい、殺しにかかってるのかと思いました。喫茶店の比喩も最高。しかも、そのあとの結婚式でのアヴェ・マリアからのwhite loveはもう失神するかと思った。その後の紅でしっかり目を覚ましました。(九條さんの結婚相手がよくする話はタイヤ。これもまた円。しかもドーナツに似てる。)

 

今回は別府さんにスポットを当てた回だったけど、その一方ですずめちゃんの抱く想いをコンビニの前で食べるアイスで描いて見せたりしたところはもう流石ですよね。このシーンも失神するかと思った。今回やったような行間を読むことを行間を使って描く、ってちょっとすごい。来週はすずめちゃんフィーチャーの回らしいので震えて待つ。