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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.05.12(やさしさ)

縁側に座りペディキュアを塗る葉子と庭に立つテルコ

 

テルコ「髪型変えた?」

 葉子「うん。なんか知り合いの編集部の人にさ、こういうのも似合うんじゃないかって言われて。え、どうかな?」

テルコ「それって男の人?」

 葉子「まぁそうだけど」

テルコ「ふーん。」

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テルコ「ナカハラ君は?」

 葉子「ナカハラ?もう最近会ってないけど。なんか電話しても出ないし」

 

塗り終わった爪を見て立ち上がる葉子

  葉子「お母さーん。テルちゃん来た。なんかあるかな?……………え、上がんないの?」

テルコ「ねぇ。葉子ちゃんはそれでいいの?」

 葉子「えっ何が?」

テルコ「ナカハラ君と連絡取れなくなっても全然構わないわけ?」

 葉子「えっ、何よ急に?」

テルコ「大体さ、葉子ちゃんはナカハラ君のこと雑に扱いすぎだったんだよ。かわいそうだよ。そもそも葉子ちゃんのせいじゃん。意味わかんない旅行に行かされてさ。…なんでもっと大事にしなかったの?」

 葉子「え、大体私じゃなくてテルちゃんでしょ?最初に旅行誘ってきたの」

テルコ「でも行けって言ったのは葉子ちゃんじゃん」

 葉子「行くって決めたのはナカハラじゃん」

テルコ「無責任だよ…ナカハラ君のことなんだと思ってんの?…ナカハラ君葉子ちゃんのこと好きだったんだよ?」

 葉子「…………で?」

テルコ「…で?じゃないよ。最低だよ!葉子ちゃんがナカハラ君にしてること葉子ちゃんのお父さんがお母さんにしてたことと同じじゃん!」

 葉子「…はぁ?…えっどこが?どこが父親と一緒なのよ。あいつなんかと一緒にしないでよ!大体テルちゃんに何が分かるわけ?」

テルコ「分かんないよ!…分かんないけど、優しくないよ!」

 葉子「…あのさ、自分がマモちゃんと上手くいってないからって人に当たるのやめてくれる?そうやって自分のことナカハラに投影してるだけじゃん!」

テルコ「何それ?そんなことしてないよ!」

 葉子「大切にしてほしいんでしょ?優しくしてほしいんでしょ?田中守にさ!」

テルコ「そんなんじゃないって!今私の話関係なくない?」

 葉子「……ってかテルちゃん何しに来たの?こんなくだらないこと言いに来たんだったらもう帰ってよ。…ごめんね?テルちゃんみたいに落ち込んでなくて」

テルコ「くだらなくないから」

 葉子「じゃあね」

言い終えて家の中へ入ろうとする葉子

 

庭から身を乗り出して葉子の背中に向かって話すテルコ

テルコ「ちょっと待って!」

 葉子「…何?まだなんかあるの?」

テルコ「葉子ちゃんも寂しくなるときってある?」

 葉子「えっ?」

テルコ「葉子ちゃんも寂しくなるときってあるかって聞いてんの!」

 葉子「…あるに決まってんじゃん!私のことなんだと思ってんのよ」

テルコ「……………もういい」

 葉子「何それ」

振り返り部屋に入っていく葉子

庭から早足に帰っていくテルコ

 

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昨日リリースされたHomecomingsのアルバム『Moving Days』を聞いていたら、なぜか一日中『愛がなんだ』のこのシーンが脳内でずっと再生されていた。自分はこのアルバムが「やさしさ」と「生活」についてのアルバムだと思った。だからこのシーンが引っ張られたのかも。ナカハラとテルコのコンビニのシーンも良いけど、テルコと葉子ちゃんのこのシーンも何度も見たくなるくらい好きだったので書き起こしはすぐに見れる自分のメモとして。

各種映像配信サービスで気軽に見れるようになったので(Blu-rayも持ってるけどな!!!)割と最近何度も見返してしまうのだけど、改めて自分はこの映画が拗らせた人の報われない恋愛みたいに片付けられてしまうことにどうも違和感がある。もちろん魅力のひとつにそれもあるだろうし、最初に見たときの心臓にナイフを突きつけられている感じはそういう側面から少なからず自分を投影していたからだし。

 

なんとなくだけど、自分はこの映画があらゆる恋愛のめんどくささを描いた先で「誰かを好きだという気持ちが、ご飯を食べて生活を続けていく力になる」という"好き"の肯定に繋がるところが好きなんだと思う。それは好きな人がいる、ってことだけじゃなくて音楽が好きとか、アイドルが好きとか、映画が好きとか、そういうこととそう変わらないと思う。そういうものがないと自分がどこに向かっていいか分からなくなるような気がする。それがテルコにとっての田中守な訳で、だからこそ自分の想いが通じなかろうが関係が破綻しようが関係ない。事実、テルコはめちゃくちゃご飯を食べて日々を生きているし、最終的にはマモちゃんの存在さえ超えたところに行ってしまうわけだし。(ラストシーンのあれは個人的には現実感がないので好きな人がなれなかったものに、好きな人を追いかけていた自分がなってしまった、みたいなひとつの形だと思ってる)

まぁそんなことより、「わかんないけど、優しくないよ!」のやさしさってなんだろうとか、葉子ちゃんも寂しくなることがあると聞いた後のテルコのあの表情はどういう気持ちなんだろうとか、それは何度見ても自分のなかで正体が掴めそうで掴めなくて本当に面白い。

 

 

 

 

2021.05.10(コーヒーお好きなんですね)

ベッドから出たときの肌寒さはどこへやら。照りつける太陽は明らかに「なつ」の二文字を感じさせる。昨夜は早くもエアコンのドライをつけてしまった。連休最後の乱れ切った生活リズムのせいで寝れるはずもなく、おれのGWは外国のTikTokの切り抜きハプニング動画集みたいなものを暗い部屋で眺めるというバッドエンドを迎えた。連休を全然大切にできなくて連休に謝りたい気持ちでいっぱいになった。天井を見上げながらエアコンのタイマーが切れて緑色のランプが消える瞬間を見た。

10日も休むと本格的に社会復帰は難しく、半袖なのか長袖なのかもよくわからない服を着て、これは自分の仕事だったのか何だったかもよくわからない仕事を始めた。社会はそんな怠けきった人間を優しく迎えてくれるはずもなく、休み明け初日にしてはなかなかに重い難題を与え続けられた。数日前から何故かSIMONの「どうってことねぇ」が耳から離れないので脳内で流し続けながら耐えた。

 

加入している生命保険の担当が変わったので挨拶を兼ねて現在の契約確認をさせてほしいと連絡があり、仕事終わりに駅中のカフェに向かった。担当の方とまったく面識もないのでカフェの中に入るか外で待つかちょっと迷いながら、待ち合わせ時間の5分前くらいに外で待ってますとショートメールを送ったけど反応がなく、数分後にカフェの中から保険レディが現れた。どうするつもりだったん。この仕事を始めて2年目だという保険レディに一通りの説明を受ける。コロナ禍以前は前担当者が会社内によく勧誘や説明に来ていたけど今は社内に入れないのでこうして加入者に説明を周っているのだそう。とにかくちゃんと目を見て話す人だった。なんとなくだけど充実した生活を送っていそうな人だと思った。いや充実ってなんなん。でも少なくとも連休の最後にハプニング動画を見て過ごさないことはわかる。生命保険や年金保険の加入タイミングと理由を問われてもあやふやにしか答えられない自分とは違うのもわかる。そりゃ「えー、ご自分で加入されてるのに…」と失笑されるのもわかる。

説明も終わり、少し雑談をして会話が落ち着くと充実保険レディに「あ、コーヒーぜひ飲んでください!」と言われた。説明を受けている間手をつけられず、グラスに水滴のついたコーヒーを手で指す。あー。コーヒー飲み待ちの時間か。確かにこれ飲んだら区切り良く終われる。ありがとうございます、と気持ち急ぎ目にストローを吸うと「あ、コーヒーお好きなんですね。」と言われた。世界一空間を埋めるのに適してる言葉だと思った。そうですね。と答えた。

 

 

 

 

一日と全然関係のないこと。最近映画のラブシーンについて考える。(ことベッドシーンや濡れ場と呼ばれるものについて)

それに拍車をかけたのは浅野いにおの『うみべの女の子』の映画化だったような気がする。まだ公開もされていなければ観てもいないので何も言えないのだけれど、猛烈に不安な気持ちがある。この不安な気持ちの正体が何なのかもやもやと考えていた。例えば役者が身体を晒していると(正しい表現ではないと思う)、"身体を張った"とか"体当たりの"みたいな枕詞のコピーをよく目にするけど、まずそれに違和感がある。脱いでいるから演技として箔が付くなんてことはないし、普通につまらない前時代的な映画に張る身体なんてない。極論、映画としてその要素が必要で、尚且つ美しく撮れるのであれば良いのかもしれないけれど、その見極めというか本当にそのシーンは必要なのか、本当にその方法じゃないとだめなのかを吟味する必要はめちゃくちゃあると思う。そういう意味ではこれまでの日本映画のそのラインってめちゃめちゃ緩くない?というか安易にそこに行ってない?みたいに思うようになった。

引き合いに出すのも変な話だけどNetflixで公開されている廣木隆一監督の『彼女』は個人的には最悪の例だと思った。もちろんそれだけがその映画のすべてじゃないし、役者に非はないのは前提としてだけど2021年にもなってまだこんな感じなんだ…と絶望した。単純に演じている人のプライバシーが保護されているのか、みたいな不安も残る。配信がメインになる今の時代ならなおさら。

とか、こう書いていると意義的なところを理由にしているように見えるけれど、きっともっと根本的なところで映画を通じて人を性的に搾取する男性性みたいなところに嫌悪感があるのかもしれない。もちろん自分も広義の意味でその男性に属する一人でもある。あの映画、あの人の裸が見れるよ。みたいな言われ方ってホモソーシャルな場には絶対あるし、例えば『うみべの女の子』がそういう見方をされないとは思えなかった。ゾッとする。その場に自分がいると思うとなおさら。それが猛烈に感じた不安の正体だった。(じゃあお前はアダルトコンテンツ見ないの?って問いは全然違う話なので突っ込まないでね。)

だってさ、そういうシーンがなくたってむちゃくちゃ官能的でエロいシーンなんて撮れるじゃん。『有村架純の撮休』の3話とか見た?それは置いておくにしても、大前提として他人に触れることの怖さとか尊さに意識的じゃない映画なんて良い映画な訳がないと思う。そういう瞬間が見たいから自分は映画を見たりする訳だし。

そんなことをツイートしてたら『うみべの女の子』主演の石川瑠華さんにいいねを押されて(全然いいねじゃない)見てもないのにこんなこと書いて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。石川瑠華さんは本当にいい役者さんだと思います。

いや、だれに何を書いてるんだろう。いや、でも日記とかブログってこういうもんだし。いや、でも消したい。でも書いちゃったし。寝ます。