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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

ありのままで - 『カルテット/第6話』

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 前回の第5話の流れを受け継ぐとしたら、足元に"真っ赤な"ウソを携えて登場した夫さん a.k.a. 巻幹生!こだわりを捨てきれない人間臭さとかそれでも自分を出し切れない情けなさとか、表裏一体の人間味を見事に表していたクドカン。これはもう間違いない采配だったのではないでしょうか。ということで第6話は巻真紀・幹生の夫婦が出来るまで、そしてそれが壊れるまでを描く劇中初の回想でした。思えば、傑作『それでも、生きてゆく』でも中盤に文哉の回想を挟んだり、ドラマの大きな流れの中で異色の回があったような。

意図してなのか、今までと演出の仕方もがらっと変わったような気がする。何というか、意識させすぎている。例えば、夫婦となった二人が一本の並木道を歩くシーン。並木道を松たか子が歩く。話は逸れるがどうにもこの画に既視感を覚えてしまう。そう、『HERO』だ。ただ隣を歩くのは茶色のダウンを身に纏うキムタクではなくクドカンってところがちょっと笑ってしまう。いや、まあそこが言いたいことの本筋ではなくて、その後の対比となるシーンで、とことんすれ違っていく二人が最終的に同じ道を歩いているはずなのに真逆に進んでいるように見えるという演出。それ自体が悪いわけではないけど、やたらカットを割るのはつまらないなあと思ってしまった。ハッとさせられないというか、そのままの意味の画になってしまっているというか。同じ理由で、「からあげにレモン」のくだりとか「柿ピー」のくだりとかも、そこまでわかりやすくせんでも…。と思ってしまう。考えてみると、今までのカルテットの演出って"点"だったのだと思う。全体に散らばった点が振動することで大きな波になるというか。それが今回は線になってたように思う。その分余波は少ない。

あ、でも好きな演出もあった。決定的にもう向き合えなくなってしまった真紀と幹生を捉える画の中で、真紀をキッチンの小さな枠に収めてしまう構図は、「これFARGOじゃん!」と思ってしまった。(その後の回想終わりでまさか本当にFARGO的な展開になってしまうとは…)

 

と、どこか否定的になっていたけど、振り返ってみるとこれって「音」と「画」の対比、「聞くこと」と「視ること」の対比になってるのではないかと思えてきた。真紀と幹生を形作るものって間違いなく「音」だ。二人の出会いからして"バイオリンの音"が鳴っていたはずで、幹生が真紀を意識する瞬間にも"小さな声"という音が鳴る。さらには

「あ、名前。巻じゃないですか。」

「真紀ちゃんからしたら、俺なんか結婚相手には選ばない相手ですよね。」

「巻真紀はイヤですね。」

といった"名前の発音"が二人を近づけ、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の曲が鳴り二人は結ばれる。しかし、結婚した真紀がバイオリンを引き出しの奥の方(いつ恋より)にしまってしまうと、とたんに少しづつ音が鳴り止んでいく。唯一音が鳴るのは真紀が料理を作りながら鳴らす"GReeeenのキセキ"という何とも悪意に満ちた選曲。そんな曲のボリュームを下げ、

「バイオリン続けなよ」

「真紀ちゃんの好きにしたほうがいいよ」

「真紀ちゃんは真紀ちゃんらしく」

 

「ねえ真紀ちゃん。何でバイオリン弾かないの?」

と"ありのまま"を真紀に求める幹生。彼は最後まで二人の出会いだった"音"を求め続ける。しかし、真紀の口から発せられる音はとても限られた範囲の話だけになり、"映画を視る"、"テレビを視る"というとても限られた"視る"行動が増える。忘れてはいけないのが、"凧を見上げる"というシーンで、あれに限っては"視る"なかでもとても開放的な空間であったのに、真紀は家の中に居ることを選ぶ。ついには幹生が見上げる空に映る凧も絡まり、転落していく。その転落と同時に幹生もまたベランダからの転落を選ぶ。(後の転落シーンとの因果も巧い)

と、二人の間に鳴っていた音が消えていくのを「聞くこと」から「視ること」への移行として演出したのだとしたら、やたらカットを割ったり、極端にアップで顔を捉えるのも「視ること」としての演出なのだろうか。いやー。だとしたらもっと画にハッとさせられたいし、パンチがないと思うなあ。なにより説明過多なのが痛い。あとは、有朱の行動の理由がわからない点とか、鏡子があっさり真紀の言うことを聞いてしまうところとか、一部のねじをきつく締めたことで全体が軋んできてる感も否めない。第5話のラストで真紀が家森さんと別府さんに夫さんの写真を見せた理由とか。後々理由がつくのかもしれないけど一話の中で筋を通してほしいというのは文句つけすぎでしょうか。

余談ですが、有朱の名前の漢字がとても変換しにくくて思ったことなのだけど、「朱(赤)が有る」という意味での有朱なのかな?彼女の身に纏うものに赤はないけど、そもそも名前に赤(朱)を背負っていた的な!

 

 






 

 

うそはあかいろ - 『カルテット/第5話』

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「出会った時から嘘で結びついている」

「嘘でも嬉しかった」

「ほら、真紀さんも嘘つき」 

「すずめさんは嘘つかないんですか」

「みんな嘘つきでしょ」

嘘、嘘、嘘。このドラマは嘘から始まったドラマだ。いろんな嘘があった。まだ隠されてる嘘もあるだろう。これまでの嘘を振り返ってみると共通するのは色である。「真っ赤なウソ」とでも言わんばかりに嘘つき達は何かしらの形で赤を背負わせられる。例えば、第1話で登場したベンジャミンさんは「あしたのジョー」の赤い帽子をかぶる、演奏をうまくできないと嘆く巻真紀の衣装も赤。住所を偽り隠れながら生活する茶馬子の着ている服も赤。鏡子に巻真紀の素性を探るように依頼されたすずめちゃんの纏う色も赤、だったのが気持ちの変化とともに色まで変わっていくのも面白い。今回の第5話では服に付いたスパンコールの色にまで収まっている。その一方で、有朱があの別荘に持ち込んだ"赤いドレス"という一際大きな赤が決定的にカルテットを崩壊させて、不協和音をこれでもかと鳴らす。冒頭にあった「他人の携帯を見るか否か」という質問に対して鳴らす四人の不協和音はどこか聴き心地が良い気がしたのは自分だけだろうか。あれはもう、一つのハーモニーだ。それに比べてあの修羅場シーンの不協和音は耳にキく、腰にキく、頭にキく、たまにハートにもよくキく(RHYMESTER/ペインキラーより)。このドラマお得意の食事描写が今回は一切なかったのも、この別荘に歪な赤が入り込んだことによる弊害か。バームクーヘンやロールケーキには逃がさんぞ。穴なんて埋めてやる。とでも言わんばかりの。そして、ボイスレコーダーからリフレインされる「からあげにレモン」のくだり。ああ。とすずめちゃんと同じように天を仰いでしまった。スパンコールの花一輪分の嘘がまた不可逆な結果を生んでしまった。

でもこの一連のシーン。ちょっとお腹いっぱいかなあ。第一幕から第二幕へのブリッジという役割ならいいけど、このテンションを今後頻繁に持ってこられたらちょっときついかも。有朱はどこかでスパッと切らないと「いつ恋」の小夏みたいになってしまいそうでちょっと恐ろしい。

 

話を「嘘」に戻そう。でも、このドラマは嘘を邪悪なものだったり、単に悪いことや恥ずかしいことに収めようとはしない。別府さんの弟の紹介で、あるピアニストのコンサートで演奏をする四人。しかし、様々な色の衣装を着させられ演奏者としてのアイデンティティーを次々と奪われていく。挙げ句の果てにはステージの上で楽器を持ってウソ(=当て振り)をつけとまで迫られる。そんな嘘はつく必要はない、と思うだろう。でも最後に四人のした選択は"逃げない"ことだった。

「だって、元々信じられないことだったじゃないですか」

「私たち奏者として全然なのに、プロ名乗る資格ないのに、普通の人がで出来る様なことも出来ないのに」

 

「これが、私たちの実力なんだと思います。」

「現実なんだと思います」

今まで、それぞれにいろんな場所から弾かれ、逃げて、捨てて、そして同じ場所に辿り着いた四人が"今ここ"を現実と受け止め全力で嘘をつく。一人だったら直視できない現実も、もしかしたら四人なら。嗚呼。なんて醜くも美しい共同体なんだろう。そして、まさに嘘のステージを降りた後、人々の行き交うストリートに彼らの音は鳴る。華やかな衣装はいらない。白と黒が混ざるそれくらいがちょうどいい。四人で音を鳴らせば、それだけでキュンキュンできる。見よ、このすずめちゃん(満島ひかり)の国宝級の御尊顔を!ありがとぅショコラ!!

行き交う人の足をほんの少しだけ止める、どこか穴の空いた四人の音。そんなシーンとともにタイトルバック。雰囲気は真逆と言えど「ヒメアノール」級の鮮烈さ。ここで終わってもいいよ。とも一瞬思ったのだけど、クドカンの夫さんは見たいのでとりあえず来週までまた生き延びます。