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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

人は選択肢に恋をする - 『カルテット/第4話』

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溜め込んだゴミを眺める四人。「捨てられない」場面から第4話は幕をあける。ただ一人別府さんを除いて、ほかの3人は一向にゴミを捨てに行こうとしない。そうこうしていると家森さんを追う半田(我らがD坂間)が現れて家森さんのヴィオラとゴミを持って行ってしまう。そんな冒頭。

「溜め込んだもの」「捨てられないもの」「見て見ぬフリをしているもの」そして「秘めたるもの」があの軽井沢の別荘には溢れかえっている。それぞれがもともと属していた集合体(主に家族)から持ち寄ったものもあれば、この別荘で生まれたものもある。例えば、今回初めて画面に映る家森さんの部屋を思い出してみよう。隙間なく並んだ本棚にびっしりと本が詰まっている。他にあるのはハンガーにかけられた衣服が何着か。あとはキャリーバッグ。さらに家森さんの口から語られる自身の生い立ちは

「僕宝くじで6000万円当たったことあって」

「で、当時Vシネの俳優やってたんだけど」

「元はというと、小学校の時自転車で日本一周して」 

 ということらしい。まさにトッピングが濃すぎて何が何やら。家森さんはどうやら「物事が続かない人」というよりも「捨てきれない人」らしい。これは持論だけれど、選ばれなかった選択肢ほど輝いて見えてしまう。ことはないですか?あのとき、ああしてれば。あのとき、こう言っていたら。

家森さんは家族と暮らす道の途中で、「音楽で生きる」「音楽と生きる」という道を選びました。今はカルテットとしてヴィオラを弾く家森さんだけど、半田に半ば強制的にヴィオラを奪われた途端に、もう一つの道が浮かび上がる。「グーチョキパーで何作ろう」の音、「クセのあるチャイム」の音、家族の音が再び家盛さんを捨てきれなかったもうひとつの道に引き戻す。人は自分の手で進む道を選ぶことができる。ただし、選ばなかった方に好きな時に戻れるほど甘くはない。

「あーあ、あのとき宝くじ引き換えておけば今ごろ…」

なんてのは「ここではないどこか」でしかないのだ。そんな「家族との道」が潰えたと同時にヴィオラは家森さんの元へと帰ってくる。それを叩き割ろうとする手を止める茶馬子の手は、家森さんの「いまここ」を肯定してくれる何にも代えがたい「そのままでいい」という想いではないだろうか。それにしても高橋一生高橋メアリージュンのやり取りは最高の離婚βという感に溢れていた。高橋メアリージュンの演技はどうしても尾野真千子を感じてしまうけど、それでも最高の離婚の匂いを欲してしまう自分が少し情けなくなった。

自分の「いまここ」を受け入れた上でそれを音楽に昇華する家森さん。決別とともにもれる白い吐息が美しかった。そしてそれを肯定する今の家族たち。犬になって盛れるアプリなんていらない。進む道を選んだ自分の手と同じ手で、先を見据える目はこんなにも大きくできる。

 

「ゴミ」が牽引するのは家森さんのストーリーだけではない。例えばすずめちゃんと別府さんの「見て見ぬフリにされた」キスだったり、別府さんの巻真紀への溜め込んだ想いも運んでいく。終盤ではそんな溜め込まれたゴミをワゴンに乗せて、東京のこれまたゴミが溜め込まれた一室へと旅立つ別府さんと巻真紀。しかし、その一室には溜めこまれたゴミたちにまぎれて一際輝く、意味を持つもの(=靴下)が置き去りにされている。溜め込んだものは捨ててしまおうとする別府さんの前に、一足の靴下が立ちはだかる。

「あなたといると二つの気持ちが混ざります。」

「楽しいは切ない、嬉しいは寂しい、優しいは切ない」

「愛しいは、空しい」 

空しい。まさにドーナツの穴だ。それが愛とイコールで繋がれてしまった!

ちなみに毎話登場する色の対比(第4話で言えば茶馬子の赤とすずめちゃんの緑だったり、ラストの別府さんの黒と巻真紀の白とか)もまさしく混ざり合う二つの気持ちなのではないだろうか。さらには先日配信開始となった主題歌「おとなの掟」(屈指の名曲)にはこんなフレーズが。

白黒つけるのは恐ろしい
切実に生きればこそ


自由を手にした僕らはグレー

二つの気持ちが混ざり合う。二つに分けることなんて大事なことではない。その二つが干渉しあい混ざり合う、そこにこそドーナツの穴を満たす何かがあるのかもしれない。

 

振り返ると、今回の演出は動きによるものが多くて台詞劇には向いていなかったような。事実、掛け合いの場面はそんなに多くなかったのだけど。3話のバランスが絶妙すぎたのかな。さて、次回の第5話で第一幕が終了とのことで波乱の予感。

 

 




 

魔法少女が見たものは - 『カルテット/第3話』

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どうしたものでしょう。いくら坂元裕二好きとは言え、いくら満島ひかり好きとは言え、こんなに素晴らしいものに火曜の22時にテレビをパッとつけただけで巡り合っていいものだろうか。其れ相応の機関があるのだとしたらどうかお気持ちの一つでも受け取ってくだせえ。とにかく「カルテット」の第3話はとんでもなかった。もう正直ちゃちな感想なんぞ書きたくない。書きたくないのだけど、書かなかったらそれはそれで気持ち悪いのでとりあえず。

 

3話目にしてようやく気づく。そうか。これって家族の話なんだ。第1話の中心となったからあげ然り、第2話の冒頭を飾ったブイヤベース(と餃子)然り、チャーシュー丼にアイスに食にまつわるシーンのなんと多いこと。第3話では四人で鍋を囲んで湯豆腐をつついている。しかも決まって主菜は一人分を小分けにはせず、食卓の中心にある大皿もしくは鍋からそれぞれがよそっていく形だ。それぞれが顔を突き合わせて。ああ。なんてことはない。もうこれは家族だ。この食卓一つ取っても四人が(擬似)家族を形成しているのは間違いない。そう思って見てみるとそれぞれのポジションも、子供を注意するけど話題の提供や持論の主張は欠かさない父親→家森さん(まさしく家守!)、穏やかなようでいて内に様々なものを抱える母親→巻真紀、奔放な子供たち→すずめと別府さん、みたいに一つの家族に当てはまる。

しかもどうやら彼らは、それぞれに家族からはぐれてしまった背景を持っているようだ(次回予告の家森さんもそれを匂わせていたような)。そんな彼らや彼女たちが寄り添い、顔を向き合わせて家族になる。そうか。そんなカルテットだったのか。

 

顔を突き合わせる。第3話を推進したシークエンスはこれじゃないだろうか。例えば、冒頭に有朱はすずめちゃんにペットボトル一本分の距離という誘惑を指南する。その後別府さんのベッドに忍び込んで誘惑を実践するすずめちゃん。しかしこの時の2回目の「いただきます」の破壊力はなんだ。そしてそれを受ける松田龍平の背中はなんだ。おっと、話を戻す。例えば、巻真紀がすずめちゃんを餅つき大会に誘う場面では二人は背中合わせになって会話をする。病院から出た巻真紀とすずめちゃんは道路を隔てて対岸に並ぶ。埋めようのない距離の如く二人を隔てようとする。しかし、巻真紀の振り絞ったすずめを呼ぶ声は距離を越えて届く。巻真紀に気づいたすずめの手の上げ方。(ああこれは洋貴と文哉だなあなんて思ったりもした。)

 

はい。そして舞台は増田屋という名の蕎麦屋さんへ(実在するのね)。正直、ここからのシーンは言葉にするのも惜しいので見て感じるに限るような気がする。まさか稲川淳二の声が誰かの気持ちを代弁しようとは。背を向けて語る誰かの過去がそれを見つめる誰かに伝わるとは。超えられないと思われた距離をつなぐのは何なのか。ネクストレベルのその先の先くらいまでひょいっと行ってしまった坂元裕二よ。もう一生ついて行きます。そしてこの台詞を放つ際の松たか子の声や表情の寸分狂わぬ完璧さよ。

「すずめちゃん。病院行かなくていいよ。カツ丼食べたら軽井沢帰ろう。」

「いいよいいよ。みんなのとこに帰ろう。」

かつて偽者の魔法少女と揶揄された少女にかけられた呪い。家族という枠組みもまた一つの彼女にかけられた呪いだ。いや、誰にだってそれは呪いになりえる。そんな呪いを解くことができるのは血の繋がりなんかではなく、同じシャンプーを使って、同じ食卓で顔を突き合わせて同じご飯を食べる赤の他人しかいないのかもしれない。このテーマに傑作『夫のちんぽがが入らない』を関連付けることはやはり避けられない。「家族なんだから」と枠の外から誰かが言うのは簡単だ。悪意もないだろう。でも誰かのあたりまえは別の誰かのあたりまえにはなりえない。そんな呪いはもう解いてしまおう。

魔法少女はあのロッカーのなかに何を見ただろう。透視能力はインチキだったかもしれない。しかし、彼女が手を振るその先にはきっと。

 

そういえば巻真紀は第1話の中でこんなことを言っていた。

「音楽と一緒に暮らしたいです。」 

すずめちゃんが白い髪の老人からもらったチェロ。彼女はこう話す。

「チェロは私の手には大きくてなんだか懐かしくて、守られてる気がしました。」

「そっか。あなたは私より長く生きるんだ。じゃあそうだね。ずっと一緒。一緒にいてねって、約束しました。」

まさにこれこそ、すずめがチェロと共に、すなわち音楽とともに生きていくことを決意した瞬間だろう。そう考えると巻真紀にとって、いや彼ら4人にとって4人で暮らすことは、まさしく音楽と暮らすことでもあるのかもしれない。