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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

うそはあかいろ - 『カルテット/第5話』

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「出会った時から嘘で結びついている」

「嘘でも嬉しかった」

「ほら、真紀さんも嘘つき」 

「すずめさんは嘘つかないんですか」

「みんな嘘つきでしょ」

嘘、嘘、嘘。このドラマは嘘から始まったドラマだ。いろんな嘘があった。まだ隠されてる嘘もあるだろう。これまでの嘘を振り返ってみると共通するのは色である。「真っ赤なウソ」とでも言わんばかりに嘘つき達は何かしらの形で赤を背負わせられる。例えば、第1話で登場したベンジャミンさんは「あしたのジョー」の赤い帽子をかぶる、演奏をうまくできないと嘆く巻真紀の衣装も赤。住所を偽り隠れながら生活する茶馬子の着ている服も赤。鏡子に巻真紀の素性を探るように依頼されたすずめちゃんの纏う色も赤、だったのが気持ちの変化とともに色まで変わっていくのも面白い。今回の第5話では服に付いたスパンコールの色にまで収まっている。その一方で、有朱があの別荘に持ち込んだ"赤いドレス"という一際大きな赤が決定的にカルテットを崩壊させて、不協和音をこれでもかと鳴らす。冒頭にあった「他人の携帯を見るか否か」という質問に対して鳴らす四人の不協和音はどこか聴き心地が良い気がしたのは自分だけだろうか。あれはもう、一つのハーモニーだ。それに比べてあの修羅場シーンの不協和音は耳にキく、腰にキく、頭にキく、たまにハートにもよくキく(RHYMESTER/ペインキラーより)。このドラマお得意の食事描写が今回は一切なかったのも、この別荘に歪な赤が入り込んだことによる弊害か。バームクーヘンやロールケーキには逃がさんぞ。穴なんて埋めてやる。とでも言わんばかりの。そして、ボイスレコーダーからリフレインされる「からあげにレモン」のくだり。ああ。とすずめちゃんと同じように天を仰いでしまった。スパンコールの花一輪分の嘘がまた不可逆な結果を生んでしまった。

でもこの一連のシーン。ちょっとお腹いっぱいかなあ。第一幕から第二幕へのブリッジという役割ならいいけど、このテンションを今後頻繁に持ってこられたらちょっときついかも。有朱はどこかでスパッと切らないと「いつ恋」の小夏みたいになってしまいそうでちょっと恐ろしい。

 

話を「嘘」に戻そう。でも、このドラマは嘘を邪悪なものだったり、単に悪いことや恥ずかしいことに収めようとはしない。別府さんの弟の紹介で、あるピアニストのコンサートで演奏をする四人。しかし、様々な色の衣装を着させられ演奏者としてのアイデンティティーを次々と奪われていく。挙げ句の果てにはステージの上で楽器を持ってウソ(=当て振り)をつけとまで迫られる。そんな嘘はつく必要はない、と思うだろう。でも最後に四人のした選択は"逃げない"ことだった。

「だって、元々信じられないことだったじゃないですか」

「私たち奏者として全然なのに、プロ名乗る資格ないのに、普通の人がで出来る様なことも出来ないのに」

 

「これが、私たちの実力なんだと思います。」

「現実なんだと思います」

今まで、それぞれにいろんな場所から弾かれ、逃げて、捨てて、そして同じ場所に辿り着いた四人が"今ここ"を現実と受け止め全力で嘘をつく。一人だったら直視できない現実も、もしかしたら四人なら。嗚呼。なんて醜くも美しい共同体なんだろう。そして、まさに嘘のステージを降りた後、人々の行き交うストリートに彼らの音は鳴る。華やかな衣装はいらない。白と黒が混ざるそれくらいがちょうどいい。四人で音を鳴らせば、それだけでキュンキュンできる。見よ、このすずめちゃん(満島ひかり)の国宝級の御尊顔を!ありがとぅショコラ!!

行き交う人の足をほんの少しだけ止める、どこか穴の空いた四人の音。そんなシーンとともにタイトルバック。雰囲気は真逆と言えど「ヒメアノール」級の鮮烈さ。ここで終わってもいいよ。とも一瞬思ったのだけど、クドカンの夫さんは見たいのでとりあえず来週までまた生き延びます。

 

 





 

人は選択肢に恋をする - 『カルテット/第4話』

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溜め込んだゴミを眺める四人。「捨てられない」場面から第4話は幕をあける。ただ一人別府さんを除いて、ほかの3人は一向にゴミを捨てに行こうとしない。そうこうしていると家森さんを追う半田(我らがD坂間)が現れて家森さんのヴィオラとゴミを持って行ってしまう。そんな冒頭。

「溜め込んだもの」「捨てられないもの」「見て見ぬフリをしているもの」そして「秘めたるもの」があの軽井沢の別荘には溢れかえっている。それぞれがもともと属していた集合体(主に家族)から持ち寄ったものもあれば、この別荘で生まれたものもある。例えば、今回初めて画面に映る家森さんの部屋を思い出してみよう。隙間なく並んだ本棚にびっしりと本が詰まっている。他にあるのはハンガーにかけられた衣服が何着か。あとはキャリーバッグ。さらに家森さんの口から語られる自身の生い立ちは

「僕宝くじで6000万円当たったことあって」

「で、当時Vシネの俳優やってたんだけど」

「元はというと、小学校の時自転車で日本一周して」 

 ということらしい。まさにトッピングが濃すぎて何が何やら。家森さんはどうやら「物事が続かない人」というよりも「捨てきれない人」らしい。これは持論だけれど、選ばれなかった選択肢ほど輝いて見えてしまう。ことはないですか?あのとき、ああしてれば。あのとき、こう言っていたら。

家森さんは家族と暮らす道の途中で、「音楽で生きる」「音楽と生きる」という道を選びました。今はカルテットとしてヴィオラを弾く家森さんだけど、半田に半ば強制的にヴィオラを奪われた途端に、もう一つの道が浮かび上がる。「グーチョキパーで何作ろう」の音、「クセのあるチャイム」の音、家族の音が再び家盛さんを捨てきれなかったもうひとつの道に引き戻す。人は自分の手で進む道を選ぶことができる。ただし、選ばなかった方に好きな時に戻れるほど甘くはない。

「あーあ、あのとき宝くじ引き換えておけば今ごろ…」

なんてのは「ここではないどこか」でしかないのだ。そんな「家族との道」が潰えたと同時にヴィオラは家森さんの元へと帰ってくる。それを叩き割ろうとする手を止める茶馬子の手は、家森さんの「いまここ」を肯定してくれる何にも代えがたい「そのままでいい」という想いではないだろうか。それにしても高橋一生高橋メアリージュンのやり取りは最高の離婚βという感に溢れていた。高橋メアリージュンの演技はどうしても尾野真千子を感じてしまうけど、それでも最高の離婚の匂いを欲してしまう自分が少し情けなくなった。

自分の「いまここ」を受け入れた上でそれを音楽に昇華する家森さん。決別とともにもれる白い吐息が美しかった。そしてそれを肯定する今の家族たち。犬になって盛れるアプリなんていらない。進む道を選んだ自分の手と同じ手で、先を見据える目はこんなにも大きくできる。

 

「ゴミ」が牽引するのは家森さんのストーリーだけではない。例えばすずめちゃんと別府さんの「見て見ぬフリにされた」キスだったり、別府さんの巻真紀への溜め込んだ想いも運んでいく。終盤ではそんな溜め込まれたゴミをワゴンに乗せて、東京のこれまたゴミが溜め込まれた一室へと旅立つ別府さんと巻真紀。しかし、その一室には溜めこまれたゴミたちにまぎれて一際輝く、意味を持つもの(=靴下)が置き去りにされている。溜め込んだものは捨ててしまおうとする別府さんの前に、一足の靴下が立ちはだかる。

「あなたといると二つの気持ちが混ざります。」

「楽しいは切ない、嬉しいは寂しい、優しいは切ない」

「愛しいは、空しい」 

空しい。まさにドーナツの穴だ。それが愛とイコールで繋がれてしまった!

ちなみに毎話登場する色の対比(第4話で言えば茶馬子の赤とすずめちゃんの緑だったり、ラストの別府さんの黒と巻真紀の白とか)もまさしく混ざり合う二つの気持ちなのではないだろうか。さらには先日配信開始となった主題歌「おとなの掟」(屈指の名曲)にはこんなフレーズが。

白黒つけるのは恐ろしい
切実に生きればこそ


自由を手にした僕らはグレー

二つの気持ちが混ざり合う。二つに分けることなんて大事なことではない。その二つが干渉しあい混ざり合う、そこにこそドーナツの穴を満たす何かがあるのかもしれない。

 

振り返ると、今回の演出は動きによるものが多くて台詞劇には向いていなかったような。事実、掛け合いの場面はそんなに多くなかったのだけど。3話のバランスが絶妙すぎたのかな。さて、次回の第5話で第一幕が終了とのことで波乱の予感。