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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022年ベストムービー20 [11〜20]

今年見た映画で好きなものをこうやって並べてみると、テーマのようなものが見えてくる。それは「消えていくもの/忘れられるもの」と「ともだち」だった。

前者は近年、自分が答えもなく考えてしまうことでもあった。ほっといたら消えていってしまうものや忘れられてしまうものがあまりに多すぎる。街角のお店や何気ない景色、誰かがもらした一言や大切な人との記憶。そのどれもちゃんと残しておきたいと思いながら、自分も忘れながら生活を重ねている。そしてそれは映画にも当てはまる。配信サービスの恩恵にはあやかりながらも、その影響として海外から配給され公開される映画は数年前と比べたら格段に少なくなっているし、公開されても国内アニメ映画や大作に押し負けて公開数は著しく少ない。どちらかが良くてどちらかが悪いとかそういう話ではない。業界が生き残るためにはこうなるのは必然で、マジョリティを批判したって何の意味もない。世界の流れとしてこうなっているという事実があるだけ。いつか、映画館で見れるのはアニメとMCUだけみたいな、そんな時が来てもいよいよ不思議ではない。

だからこそ、映画を撮って、残して、それを見るという行為に想いを馳せてしまう。映ってるものがどんなになんてことないものでも、確かにこの景色があったという記録として、映画という媒体を愛してしまう気持ちでいっぱいでした。

ふたつ目の「ともだち」というテーマも繋がる気がする。友達は思い出すことはあっても、ほっておいたらいつの間にか消えてしまってもおかしくないものだと思う。どうやったらこの関係を繋ぎ止められるだろうと日々心のどこかで思うことが多かった。今年見た映画の中には特に、年齢や性別や思想の枠を超えて、誰かとの関係を築くものが多かった気がする。もちろん今までだってそんなものはたくさんあったと思うけど、よりその範囲が広がったような気がする。もちろんそれらには「ともだち」以外の名前がついてもいい。というよりも名前のつかない関係こそが大事なんだと思った。

 

はい。長くなりました。毎年ベスト30とか絞りきれてないだけの膨大なランキングを発表していたけど今年はベスト20でいきます。その代わりに、自分がやりたいだけの部門賞を作りました。完全に自己満足です。今年見たのは旧作無し、配信込みで67本でした。最多更新した!来年も好きな映画と沢山出会いたいし、映画の話沢山したい!

 

 

 

 

20. X

1979年、テキサス。女優のマキシーンとそのマネージャーであるウェイン、ブロンド女優のボビー・リンと俳優のジャクソンは自主映画監督の学生RJと、その彼女で録音担当の学生ロレインと映画撮影のために借りた農場へ向かう。映画のタイトルは「農場の娘たち」。この映画でドル箱を狙う――6人の野心はむきだしだ。農場で彼らを待ち受けたのは、みすぼらしい老人ハワード。彼らを宿泊場所として提供した納屋へ案内する。一方、マキシーンは、母屋の窓ガラスからこちらを見つめる老婆と目が合ってしまう……。

頻発する映画に対するメタ的な言及にちょっとむず痒くなるけれど、恐怖と爆笑と恍惚の3つのフェーズへの揺さぶりが気持ち良くもある。最初の殺人が起きた直後のあのシーン、赤いライトで一面照らされる画面があまりにも爽快すぎる。

「何者でもない」からこそ、「開かれていない未来(X)」に対するスタンスで決着をつけていくラストも好き。語弊はあるかもしれないけれど、こういうなんてことない映画があるのってめちゃくちゃ幸せなことだと強く思った。

 

 

 

19. スティルウォーター

オクラホマ州スティルウォーターの石油会社に勤めるビル・ベイカーは、フランスのマルセイユに1年間留学し、疎遠になった娘アリソンが、レズビアンのガールフレンドを殺害した容疑で逮捕・起訴されたことを知る。有罪判決がくだり、収監されてから5年、まだ4年の刑期を残している獄中のアリソンに面会するためにマルセイユを訪れた彼は、彼女が法的手段をほとんど使い果たし、打つ手がないことを知る。彼はフランスに移住し、娘の無実を晴らすために奮闘し、言語の壁、文化の違い、そして1994年に制定された、法典に基づく複雑で不慣れな法制度に立ち向かうことになる。ビルは、フランス人女性のヴィルジニーと彼女の8歳の娘マヤに助けられる。プレッシャーが高まる中、彼は自分がどこまでやれるかを決めなければなならなかった。

ビルはかつて石油の採掘に従事し、その職を解雇された今はハリケーンの被害により倒壊した家屋の瓦礫解体業で日銭を稼ぐ生活を送る。つまりは彼の生活の基盤には災害があり、犠牲がある。もっと根底には人間の原罪があるように思う。罪という視点で更にレイヤーを設けるとすれば、娘のアリソンとの関係、彼女が犯した(とされている)罪の物語でもある。ひどく不確かなその罪の所在をめぐり、ビルは地中を掘るかのように"真実"を探る。もう石油はとっくに枯れ果てているのに。さらにその上にマルセイユに移住するアメリカの白人男性という視点のレイヤーまで加わる。そのレイヤーでもやはり"地下"に埋めるというキーワードがビルにつきまとう。(途中でアリソンが話すトランクの話も強く印象に残る)

ここまで重層的でありながら劇映画としてどういう展開になっていくかがまったく予測できないのが凄すぎる。前作『スポットライト』が個人的に問題提起が強すぎて映画としての面白みが実感できなかっただけに、それが払拭された今作はむちゃくちゃ好みだった。

 

 

 

18. プレデター:ザ・プレイ

高度な科学技術を駆使した武器を持つ宇宙で最も危険な戦士プレデターと、人類の攻防を描き、世界中でカルト的人気を誇る伝説的シリーズ「プレデター」の最新作。300年前のアメリカを舞台に、荒野のハンターたちと共に育ち、自身も戦士であるネイティブ・アメリカン最強の部族の主人公ナルに目に見えぬ危機が迫る。生きるために狩りをする人類vs狩りをするために生きるプレデター。狩るか狩られるか、種族と技術の壁を越え、戦士の誇りをかけた“最初の戦い”が始まる。

単にプレデターの新作ってだけなら、はいはい。まだやってたのね。くらいでスルーしちゃうところだったけど、あの大傑作『10クローバーフィールド・レーン』を撮ったダン・トラクテンバーグの新作と知って飛び付いて観た。間違いない構図でばしばし決めてくオープニングから、これ絶対面白いやつじゃんと確信させられてそれが100分間全く途切れない。

前作に続いてあらゆる「おまえはここにいろ」「普通はこうだから」という前提に対抗していくストーリーであり、狩る側/狩られる側の反転がこの物語を"プレデター"として語る意味になっている。さらには孤独に狩りを遂行するプレデターと、民族の中で居場所を失ったナルの同化を感じさせる編集にはクラクラした。あの傷を治すところの繋ぎ方な!その上でラストの仕掛けよ〜〜!前半で何気なく見ていた部分を"人間は過去の過ちを活かすことができる"という形で反復する展開に思わず声出ちゃった。

 

 

 

17. 線は、僕を描く

大学生の青山霜介はアルバイト先の絵画展設営現場で運命の出会いを果たす。白と黒のみで表現された【水墨画】が霜介の前に色鮮やかな世界となって拡がる。水墨画の巨匠・篠田湖山に声をかけられ、霜介は【水墨画】を学び始める。【水墨画】とは筆先から生み出される「線」のみで描かれる芸術。描くのは「自然(命)」。目の前にある「命」を白と黒だけの世界で表現する。霜介は初めての【水墨画】に戸惑いながらもその世界に魅了されていく…。

映画が始まった瞬間から良い。『出会ってしまったこと』が言葉もなく映像と音だけで一瞬でわからせてしまう力がある。その後タイトルが出るまでのシークエンスも一瞬の無駄もない。

何かが起こる時、まずカメラは手をとらえてその後に人物の顔や身体を捉える。水墨画なのだからと考えればごく自然な気もするけれど、日常に潜む動作も同じように画面が設計されている気がする。つまりそれは手からの"繋がり"だったり、ひいては"伝えること"を描こうとしてるんだと自分は思った。

間延びしそうだなあと思うと山場が来る編集も娯楽映画として大正解だし、かと思えば肝心な部分を描きすぎないようにスパッと切る潔さもある。これが自分の映画がと言われたらそうではない気もするけれど、終盤の「おかえり」「ただいま」「行ってきます」の連鎖とカットアップはめちゃくちゃ感情的に見てしまった。

 

 

 

16. グリーン・ナイト

アーサー王の甥であるサー・ガウェインは、正式な騎士になれぬまま怠惰な日々を送っていた。クリスマスの日。円卓の騎士たちが集う王の宴に、まるで全身が草木に包まれたような風貌をした緑の騎士が現れ、恐ろしい首切りゲームを持ちかける。その挑発に乗ったガウェインは、緑の騎士の首を一振りで斬り落とすが、彼は転がる首を自身の手で拾い上げると「1年後に私を捜し出し、ひざまずいて、私からの一撃を受けるのだ」と言い残して去ってゆく。それは呪いと厳しい試練の始まりだった・・・1年後、ガウェインは約束を果たすべく、未知なる世界へと旅立ってゆく。

例えば冒頭のシーン。固定されたカメラが捉えるのは一匹の馬と数匹のアヒルと一匹の山羊。右上では炎が上がっていて、何度かカットが変わった後に奥から人が歩いてくる。と思っていたらカメラは急に後ろに引いていき、四角い枠が現れて屋内からのズームであったことがわかる。カメラが引いて行った先に横向きに寝ている男が映る。という一連のシークエンス。もうこれだけでデヴィッド・ロウリーの映像感覚を信じたくなる。ここに隠されたアナロジーはおれには1ミリもわからないけど、それでいい。この快感がすべてと思ってしまう。

それは全編に渡っていて、回るカメラと共に歪む時空や、見下ろす俯瞰、円のイメージが連なる。微睡んでもいいという覚悟で見に行ったけど実際はそんなことはなかった。でも微睡んでもいいとも思う。あとキツネかわいい。

 

 

 

15. パリ13区

舞台は、高層住宅が連なり多国籍でモダンなパリ13区。コールセンターで働くエミリーと高校教師のカミーユ、32歳で大学に復学したノラ、そしてポルノ女優のアンバー・スウィート。ミレニアル世代の男女4人の孤独や不安、愛やセックスにまつわる人間模様を描く、“新しいパリ”の物語。

いつだって誰だって、自分のことを知らない誰かと繋がりたい。でも知ってしまったら、知られてしまったら、もうそれは別の世界になる。それでも誰かと繋がろうとする気持ちは消えない。

オープニングで外観から集合住宅の無数の窓を捉えるように、知ってる/知らないの境界が幾つも劇中に提示される。
部屋の出入りが頻繁に行われる2人と、ある画面を境界にして出会いを最後まで抑制する2人。それ以外にもアルツハイマーの祖母や吃音を持ちながらスタンドアップコメディをする妹という人物のアクセントがむちゃくちゃ良い。撮影や編集の手法こそ違えど、改めて物語を新鮮に面白く思う気持ちについては個人的に濱口竜介の『偶然と想像』に近い手触りを感じた。

 

 

 

14. 春原さんのうた

美術館での仕事を辞めてカフェでのアルバイトを始めた沙知(24)は常連客から勧められたアパートの部屋に引越しをする。そこでの新しい生活を始めた沙知だったが、心にはもう会うことの叶わないパートナーの姿が残っている。

昨年映画を見ながら頭の隅にずっとあったのは、映画ってなんだろうとか人にカメラを向けるってどういうことだろうってことだった。今年見た映画では、よりそれを強く思ってもっと言えば、映画の中で生きてる人のことを考えていた。

そんな風にもやもやと考えていたことへの答え(というとあけすけに言いすぎている気もする)というか、そこに一筋照らしてくれる光のようなものがこの映画の中にあった。なんというかそういう映画に出会えて、ただただすごく嬉しかった。

情動はここまでにする。
印象に残っているのは「何か越しにカメラに収まる人物」という部分。
何かには窓であったり、家の中に置かれた棚であったり、カーテンだったり誰かの背中や肩が当てはまる。カメラと人物の間が何かで隔てられているというのは単純にその間の距離を示すことになるだろうし、それは見えなさや掴めなさにも繋がる。

そのわからなさにこそ意味がある。というかそもそも映画を見ている自分と映画はカメラのレンズで、もっと言えばスクリーンという幕で隔てられている。それが見ている私と画面の中にいる人のどうしたって埋められない距離だ。4:3で収められたスクリーンは一般的な映画とは違って余白(この場合は黒)が多く、それだけ見えないものが多い。

だからこそ劇中の言葉を引用するなら「わからないけど、わかるよ。」という一定の距離をとりながら想いを寄り添わせることの強さ、確かさ、うーんなんだろう。ぴったりな言葉が見つからない。うまくは言えないけどやっぱりそれが自分にとっての映画を見る意味なんです。

でも同時に映画と私たちのこの距離がかけてくれる魔法も確かにある。
道案内のために歩く沙知と女の子が歩いている姿をぐっと俯瞰で見つめることや、たった一瞬しか吹かない風がカーテンを揺らすのを何度も見ること、もっと言えばもう二度と会えない誰かに会うことができることが映画の魔法じゃんかって思う。

もう一度と言わず、何度だってこの時間に寄り添いたい。語弊を恐れず言うとしたら、この映画を見ながら微睡んでしまうことだって間違いじゃないと思う。

 

 

 

13. TITANE

幼い頃、交通事故により頭蓋骨にチタンプレートが埋め込まれたアレクシア。彼女はそれ以来<車>に対し異常な執着心を抱き、危険な衝動に駆られるようになる。遂に自らの犯した罪により行き場を失った彼女はある日、消防士のヴィンセントと出会う。10年前に息子が行方不明となり、今は独りで生きる彼の保護を受けながら、ふたりは奇妙な共同生活を始める。だが、彼女は自らの体にある重大な秘密を抱えていた──

突飛な設定だったり、過激な描写にではなく、そのすべてをアリにしてしまう映画としての強さにシンプルに感動した。まだこんなにも観たことないものが見れるんだっていう体験でもある。兎角こういう枕詞がありきで語られそうな映画ではあるけれど、シンプルに読み解けば"人は信じたいものを信じるし、そうやって生きていくしかないじゃん"って話だと自分は思った。前作『RAW』のときはそのトーンに迷いを感じてしまったのであまり好きになれなかった記憶がある。

本来赤い血が流れる場面が総じて"黒い液体"であることも考えたい。toxic masculinityを断罪することはもちろん重要ではあるけれど、それに終始するのもいい加減モヤモヤし始めたここ数年。もちろんそれは前提にしながらも、今作の後半部分では何段階もテーマが飛躍していく。陳腐な言い方をするなら、性別や年齢や思想みたいなつまらん枠組みを超えたその先に、果たして愛は宿るのかって挑戦でもある。

久しぶりにこんなに視覚的に痛い映画を見たし、ホラー/スリラー映画好きを自称してる自分でも普通に目を逸らしちゃう場面がいくつかあった。そのどれもが"穴"に対するアプローチなのも興味深い。それで言うと中盤に差し込まれるバスのシーンとかも強く記憶に残る。何が映ってて何が映ってないのか。バスから降りたのは誰で、その後はどうなったのか。

 

 

 

 

12. ウエスト・サイド・ストーリー

ニューヨークのウエスト・サイドには、夢や自由を求めて世界中から多くの人々が集まっていた。しかし、差別や偏見による社会への不満を 抱えた若者たちは、やがて仲間と集団を作り激しく敵対し合っていく。ある日、“ジェッツ”と呼ばれるチームの元リーダーのトニーは、対立 する“シャークス”のリーダーの妹マリアと出会い、瞬く間に恋に落ちる。この禁断の愛は、多くの人々の運命を変える悲劇の始まりだった...。

開発のために廃墟と化した街を捉えたファーストカット。カメラは崩れた瓦礫と街を壊す重機や鉄球を動きながら収め、続いて街を生きる人々の背中を追う。

ミュージカルの特性が人の持つ身体の躍動と、喉を震わせる歌唱だとするならば、それをカメラが捉えることで映画としての像が立ち上がる。同時に人や街を照らす光があって、どの場面で誰を光が照らしているのか、もしくは誰が闇に包まれるのかにも注目したい。

とても無機質に映画という要素を分解して並べたけれど、そんなふうに考えてしまうくらいに、映画の特性をこんなに十二分に活かした映画を久しぶりに見た気がする。そりゃスピルバーグなんだから、と言われたらそうとしか言いようがない。

しかし人の身体性の開放と同時に画面の中には常に"柵"のイメージがつきまとう。オープニング然り、マリアとトニーが窓を介して話すシーン、ジェッツが収監された警察署のシーン。それこそが2021〜2022年の現在に古典的な物語である『ウエストサイド・ストーリー』を撮る意味だと思った。だれも悪くないのにこの柵の中でぶつかり合うしかないということ。

全くもってストーリーを知らなかった自分からしたら、こんなにも醜く哀れに人間の原罪的な"嘘"に転がされていく物語だと思わなくて終盤は呆気に取られてしまった。でも、そういう醜さこそが人間だよなぁとも思ったりする。それでも美しい瞬間が見たい、愛(みたいなもの)が生まれる瞬間が見たいと思ってしまう自分もまた罪深い。

 

 

 

11. ある男

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から奇妙な相談を受ける。里枝の亡くなった夫「大祐」の身元調査を頼みたいと言うのだ。里枝は離婚を経験後、子供を連れて故郷に戻り、やがて出会う「大祐」と再婚。新たに生まれた子供と4人で幸せな家庭を築いていたが、ある日突然夫が不慮の事故で命を落としてしまう。悲しみに暮れる中、大祐の法要の日、長年疎遠になっていた大祐の兄・恭一が訪れ、遺影を見て「これ、大祐じゃないです」と言い放つ。愛したはずの夫「大祐」は、まったくの別人だったのだ…。城戸は、“ある男”の正体を追う中で様々な人物と出会い、衝撃の事実に近づいていくと、いつしか城戸の中にも他人として生きた男への複雑な思いが生まれていく―――。

石川慶の画面設計が生理的に好きだ。とても構築された理性的なものでありながら、それは観ている側の野性や本能に訴えかけてくるものがある。

それは映画開始30秒でわかる。鏡に映る男性の背中を描いた絵画(ルネ・マグリットの「複製禁止」というらしい)に反射してその前に座った誰かの背中が見える。背中合わせの対応。続く文房具店内のシーンも凄い。ペンの位置を直す安藤サクラの頬に唐突に流れる涙。つまらない言い方だけど、映像への吸引力が尋常じゃない。

"ある男"が誰なのかを追うのだからカメラは最後まで人物の背中を追い続ける。坂を駆け上がる人物の背中を捉えるにしてもアップダウンのついた場所にカメラを置くのか、あるいは追走するのか、場面によって明確な差がある。

黒沢清を思い出してしまうような、刑務所にそんな場所あるかい!なトンネルと面会スペースも最高に不気味でいい。
物語がちょっとウェットな方向に行きすぎるかと思ったら、サッと引くバランスもめちゃくちゃ良い。極めつけのラストの切れ味。この映画が果たして誰の映画だったのかを見ている私たちは最後の最後に思い出す。