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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022.11.19(どこかでまた、と)

金曜日の夜、仕事を終えて会社の同期とご飯を食べた。北千住で待ち合わせて、しゃぶしゃぶを食べるつもりが焼肉を食べていた。焼肉は複数人いないと食べないから嬉しい。誰かと食べる焼肉はちゃんと焼肉を食べてる感じがする。M-1のこととかを話した。1年ぶりくらいに松戸まで行った。なんてことない駅の構内や汚い町の雑踏がどうしようもなく懐かしく思えた。たった1年見てないだけで、何年もいた場所がもう自分の場所じゃないように思える。同期の一人の家で話しながらSwitchでポケモンの新しいやつをずっとしていた。気付いたら深夜3時くらいになっていて寝た。夜中起きたらカチカチ音がして、一人がまだポケモンをやっていたのを微睡みの中で見た。

朝起きて、浅草に行った。他の同期と集合してうなぎを食べに行く約束だった。入社してから毎年続いている恒例の行事。道中、電車が人身事故で止まった。なんとなくの体感だけどこういう場面に出くわすことが増えている気がする。止まった電車の窓から荒川が見えて、晴れた午前の気持ちいい風が少し車両に入ってきた。見えているものと起きていることはどうしようもなく遠い。1年ぶりに会う同期数名と近況を話しながらうなぎを食べた。うなぎなんて二つ食べなきゃお腹いっぱいにならないと毎年思っていたけど、食べ終わる頃にはお腹がパンパンになっていて、自分の体もちゃんと歳を重ねていることに気付かされる。仲見世通りを歩きながら入れそうなお店を見つけて抹茶を飲んでまた話した。同期の中にはもう転職した人もいて、そこからさらに転職しようと活動している。「定職がなくても何とか生きていけるんだって気付いた」と話していて、それも良いなと思った。夕方ごろ、それぞれに解散した。一人と途中まで電車に一緒に乗った。二人ともウトウトしながら、降りる駅の直前で気付いて別れた。

 

Twitterがなくなるかもしれない、みたいなことがTwitterのなかで言われていて、もしなくなったら自分はどうだろうと考えてみた。あんまり嫌な気はしなかった。Twitterだけで繋がっている顔の知らない人も沢山いるけれど、なんとなくそれ以外の場所でもちゃんと繋がれる気がしているからかもしれない。それに自分が本を作ったりしたのはそういうためだったのかもしれないと改めて思った。

そんなことを考えていてある人のことを思い出した。高校生になってすぐのこと、BUMP OF CHICKENのライブに行った。2008年の"ホームシップ衛星"というツアーの新潟公演だった。それが自分にとって生まれて初めてのライブで、ライブに行った次の日に、ライブ後の余韻を確かめるようにインターネットで「BUMP OF CHICKEN ライブ 感想」と安直な検索をしていたような気がする。ひとつのブログに辿り着いて、この世にはライブに行った人が書くライブレポというものがあるということを知った。その日のセットリストやMCの様子、その人の感想が鮮明に記されていて、当時の自分はその文章を読んでライブの日の残り香を確かめるような気分になった。無知がゆえに、その文章の先にどんな人がいるのかもあまり考えずに感謝のコメントを残したことを覚えている。それが何を隠そうはてなブログの前身のはてなダイアリーだった。当時、携帯で書く友達同士で立ち上げたホームページの日記しか知らなかった自分はその時初めてブログという媒体があることを知った。その人が書いた過去の記事を読み漁り、BUMP OF CHICKEN以外の初めて名前を聞くバンドの存在を知った。Syrup16gGRAPEVINEART-SCHOOLはその人のブログで知り、TSUTAYAでアルバムをレンタルして聴いた。ブログに残す星は、いいねや読んだことの証よりも何か特別な意味を持つように思えた。

それから自分もこういうものを書いてみたいと思って、ただ自分の好きな音楽のことを書いたり、行ったライブのことについて書くブログを始めた。その人がTwitterを始めていて、どんなサービスかもわからないまま自分もアカウントを作っていた。SNSなんて言葉もその時にはまだなかった。それが2010年頃だった。何がきっかけだったかは忘れてしまったけど、おそらくブログのコメントやTwitteのやりとりを通してショートメッセージのやりとりをするようになって、顔も知らないその人が自分とは歳の離れた会社員の女性であったことを知った。高校を卒業するかしないかくらいの当時の自分のどうしようもない悩みをその人は文章を通して聞いてくれた。そういうことができたのは、直接会うみたいなことを考えもしなかったからかもしれない。

ある時期から、その人のブログは更新されなくなり、Twitterへの投稿もなくなった。それからもう8年程の時間が経っている。アカウントの抜け殻はあっても8年という空白は、もう戻ってこないという意思の表れか、もしくは何某かの事情によるその人の不在を確かに表している。自分が今こんなことを書いていても、もちろん伝わることなんてない。

 

例えば、自分がある日不運にも死んでしまったとして、そのことを友達とは呼べても縁遠かったりする人や、もしくは(顔や名前を知ってる知らないに関わらず)インターネットを通じて知り合った大切な人には知らされることはない。逆の立場でもそう。そういう人にあったことを自分は知らずに、いなくなってしまったということだけを感じながらきっと生活を続けていく。平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』を読んだ時にそれを改めて思った。仕方のないことかもしれないけど、それがどうにも嫌だったりする。もし自分の身に何かあったとしたら、自動でそういう事実がやんわりと伝えられたらいいのに、と思う。さよならも言わずに突然消えてしまった人になるなんて、やっぱり嫌だ。

 

一日一日、たしかに気温は下がっていて、夜の冷たい空気がピンと張り詰めているのに気付く。もこもこの靴下を履かないと足先は冷たくなるけれど、暖房をつける気にもなかなかなれない。季節は容赦なく変わるし時間もちゃんと過ぎている。お昼に食べたうなぎがお腹の中でまだ蠢いていて夜ご飯を食べないまま一日の終わりを迎えてしまった。