anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022.10.30(ほどけるリボンを結びなおす)

変なことに想いを巡らせてしまってまったく眠りにつけなくなってしまった。ラジオを流して目を瞑ってみたり、YouTubeで"3分で入眠できる"的な3時間の動画を流してみたりしたけど、結局まんじりともせず朝を迎えてしまった。顔を洗ってから友達とZoomを繋いでPodcastを録った。M-1の3回戦のこと、連休何したらいいかってこと、「考えさせられた」って何?ってことを話した。友達と話してちょっともやもやが晴れたらちょっとだけ眠くなった。

霜降り明星のANNを聞きながら歩いてストレッチに行った。坂井マネージャーのエピソードが面白くて普通に歩きながら笑った。首をグッて揉みほぐされても痛いとはまだ言えていない。結局痛いくらいがいいのか痛いのはだめなのかわかっていない。何にも食べてなかったので近くのうどん屋さんでうどんを食べた。ナスの天ぷらが美味しかった。

また少しだけ歩いて時間をつぶした。ハロウィン的な格好をした人がちらほらいた。宇宙人に抱きかかえられてるみたいなでっかい風船を背負った人を初めて見た。電車の中で光る靴を履いてる女の子がいて良いなと思った。昨日はカラフルに光るリードで犬を散歩させてる人がいてそれも良いなと思った。キラキラ光るものは全部良い。電車の中で公開されてるM-1の動画を見た。今年も全部見ることをここに宣言します。ヘンダーソンが面白すぎて顔を埋めた。

久しぶりに有楽町に行ったので宝龍で麻婆豆腐を食べた。赤というよりはちゃんとオレンジの麻婆豆腐で実家を思い出した。角川シネマで東京国際映画祭プレミア上映された三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』を観た。感想は別のところにちゃんと書きたい。でもすごく良かった。おれは心の底から"なくなっていくものを繋ぎ止めようとする映画"を求めてるんだなと思わされた。実際に、2022年そういう映画が日本に限らず世界の至る所で撮られている気がする。それはきっと映画の存在が揺らいでいるからだろうし、それ以外にもいろんなものの価値や意義が揺らいでるからなんじゃないかとなんとなく思った。三宅唱の映画は映像が直情的じゃないのが良い。何かは語っているはずなのにダイレクトに感情に働きかけてはこない。映像や音でわかりやすく悲しみを煽ったりはしない人だということを信頼している。映像は映像であるだけで価値があるし意味がある。ただし、その映像を撮るためにカメラを置く位置、光が差す場所、影ができる場所、は計算され尽くされている。ようなきがする。『神木隆之介の撮休』の5話もアマプラで観れるのですが、木竜麻生の存在も相まってまじで凄いです。

『ケイコ 目を澄ませて』の話に少しだけ戻すと、後半のモンタージュのように場面が繋ぎ合わされるシーンでおれと、おれの隣のお兄さんは同じくらい鼻水を啜って涙を流していた。おれはまた何か書きたいなと思った。それがまた書こうと思った理由のひとつ。もう一つは本がちゃんとできて一区切りついたから。作って、渡したいと思った人や顔も知らない人の手に届いたこと、それについてはまじで何の混じり気もない、ただひたすらの感謝でしかない。誤魔化さずに良いものを作ったと思っていたいと思う。ちなみに購入してくれた人に送った時には、「人に言うまでもないどうでもいいこと」を一言添えて送りました。伝わるかはわかりませんがこれを日中働きながら考えてるの、意外に楽しかったです。こういうどうでもいいことは山のように浮かんでくる。とにかく今自分の中では、忘れたくない瞬間がたくさんあってそのことばかりを考えている気がする。書いていたらあっという間に電車は体を運んでくれる。隣の人は大きく体を揺らしながら眠っている。もしかしたらこの人の降りるべき駅はとっくに過ぎているかもしれない。

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