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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.09.28(何を笑うのか/笑わないのか)

なんでこんなに最近朝きついんだろね。昨日寝る前に大前粟生『おもろい以外いらんねん』読んだ。

読み終わって、ふぇぇぇと息を吐く。著者の大前さんとは同い年であるということを後から知った。読んでいてなんとなく辿っているお笑い史の時代感が同じような気がしていた。ラスト数ページの流れ、主人公がかなり危うい人だと読みながら思っていた自分は、とても恐ろしい終わり方だと思った。お笑いの加害性、ひいては男性社会の加害性の側面を描きながら、大きな面ではやっぱり"お笑い"を肯定していると自分は思ったけど、その危うさって割と自分の中にもあるなぁと思ったりする。女性蔑視とか人種差別的なネタは論外だけど、一方で不謹慎ネタみたいなもので笑ってしまう自分がいるってのはけっこう自覚したりもしている。それも含めて自分は"危うさ"みたいなものに"おかしみ"を感じているんじゃないかと思う。例えばDr.ハインリッヒ、例えばランジャタイ、例えば真空ジェシカ、例えば天竺鼠、こう挙げてみて短絡的で非倫理的なことを笑いにしようとするコンビにはどれも当てはまらない。漫才あるいはコントの枠としての危うさ、一歩間違ったら全部が崩れてしまうギリギリのラインみたいなところに笑ってしまうんだと思う。だから決まった枠組みのコテコテのしゃべくり漫才は割と苦手なのかもしれない。こんなこと言ってると、それこそ「おもろい以外いらんねん」と言われてしまいそう。なんでお笑いって賛否どちらにしろ単純な反応しか受け入れられない節があるんだろう。もちろんQJとかそれなりの雑誌とかでは、語るべき力を持ってる人がしっかり語っているけれど、別に一人のお笑いファンとか一人の視聴者みんなが語っていいのに。とか思いつつ自分も音楽や映画のことは書けるのにお笑いは面白かった以外のことが言いにくかったりもする。なに真面目に語ってんのとか思われそう。っていう自意識かな?でも笑いほど敏感な感情は無いと思う。一言でも引っかかる部分があると途端に笑えなくなる。頭空っぽにして見ろよ、って言うんなら頭空っぽにちゃんと出来るネタにしてほしいとも思う。『おもろい以外いらんねん』に話を戻すと、総登場ページがおそらく1ページにもみたない主人公たちの同級生である"佐伯さん"の存在が何なのかをすごく考えた。主人公の危うさを浮かび上がらせる上で彼女のことを無視できない。だってあいつは彼女の感情にまったく向き合ってないから。

帰ってきて賃貸の契約をした。いっぱいの資料に名前を書いて判を押して、お金を振り込んだ。引っ越しをするってだけで何でこんなにもお金がかかるのかまじで意味わかんない。どういうシステム?