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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.08.28(くしゃくしゃに丸めたレシート、ポケットに入れた)

昨日の夜、かなり夜更かしをしてユン・ガウンの映画『わたしたち』を観た。キム・ボラの『はちどり』やユン・ダンビの『夏時間』と連なる、9〜12歳の少女の目線から世界を切り取った現代韓国映画。なぜ制服も恋愛もない、思春期にも入っていなくて大人の背丈にも満たない少女の目線でこんなにも映画が撮られるのか改めて不思議に思っていたけど、その意味が全部ここにあるような気がした。自分が生きていくなかでとても大事にしたい一本になった。

朝、起きてご飯を食べていたら昨日のPCR検査の結果がメールで届いた。結果は陰性だった。ひとまず。という感じだけど、やっぱり安心した嬉しさで「陰性でした!陰性でした!」とイエモンのJAMばりにふれまわりたくなった。流石にそこは抑えた。でもやっぱりまだ不安は拭えないので、来週また時間が経ったら抗原検査をして様子を見たい。でもとりあえず現状は大丈夫、となったので何度目か会う人と出かけた。ご飯を食べに行った。対面しないように横並びの席に案内された。目の前には仕切りの壁があって、その向こうから顔は見えない男女2人の会話が聞こえた。恐らくマッチングアプリで知り合って初めて会う2人でお互いの人となりを話していた。店を出てから、「向かいの会話、めちゃくちゃ良かったね」という話をした。その足で東京都美術館に行った。『Walls & Bridges 壁は橋になる』という企画展を観た。

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コンセプトを見たときからとても気になっていた。どれもすごく良かったけど、中でも増山たづ子さんの写真展示が心に強く残った。増山さんは故郷の岐阜県徳山村がダムに沈むことが決まった1977年から、この世を去る2006年までの間の村の様子を写真に収め続けた。増山さんがカメラを持ち始めたのは彼女が60歳の時だった。以下、引用。

プロが使うような重く操作が複雑なカメラを嫌い、「猫がけっころがしても写る」と勧められたピッカリコニカコニカC35EF)を愛用した増山。簡便なカメラの使い手であった彼女ですが、ファインダーを覗いてから、シャッターを切るまでの時間は長かったといいます。「ええと、ええと」と呟きながら、なかなか撮らない(撮れない)その姿は、周りの人にはユーモラスに映ったようでした。ダムに沈む村の運命を憂いて始めた撮影です。万感胸に迫り、涙を流しながらシャッターを切ったことも一度や二度ではありません。撮影は増山が自らに課した使命であり、簡単に済ませられるものではなかったのです。

写真には撮る人の意思があり、その向こうには被写体の生命と生活がある。何気ない日常を切り取った写真、というものが世の中には確かにあるけれど、ふと不思議に思う。写真に写る時、人は横一列に並んだりレンズに向かって指を2本たててピースとポーズを取ったりする。それはカメラの前でしかとらない行動だし、何気ない日常では起きえない現象だ。でも、その行動の人らしさとその瞬間しか起きえない空気のようなものがある。展示されたいくつもの写真を見ていると、自分はその奥にいる人の名前も年齢も知らないけれど、確かに息づくその人の時間に触れているような気がして、えも言われぬ感情になった。自然と目に涙がたまった。展示の撮影は可能とは言え、どうなんだろう。と思っていたけどここで見たことは残しておきたいな、と思って収めた。この写真と自分のスマートフォンのカメラの間にも何かが息づくのだろうか。

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一通り展示を見終えて、喫茶店でコーヒーを飲んだ。外では太陽が8月最後の暑さを放っている。いろいろ話した最後に「カラオケ行かない?」と言われた。世間ではそれは非常識な言葉と行動ととられるかもしれないけど、自分にとってはなんとなく今いちばん言われて嬉しい言葉だった。近くのカラオケボックスは人で埋まっていて入れなかった。でも、それでも良かった。少し歩いて話したりして駅に戻って電車に乗った。目の前に超ショートパンツのおじさんがいた。乗り換えの駅で降りて手を振って別れた。帰ってきたけどお腹は減らなくてお風呂に入った。一日動いていて体が疲れている感じがした。昨日そんなに寝てないせいかもしれない。でも今日あったひとつひとつのことは自分にとって特別なことばかりだったのでこんなふうに書き留めてから寝ることにした。