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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.07.19(どうせこの言葉も流れてく)

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シャムキャッツの夏目さんが今年の5月ごろから立ち上げたHPでつけている日記を遡って読んでいる。自分もこんな距離感でこんな温度感で日々を綴りたいと思った。でもそうするには絶対はてなブログはフィットしてないのよな。でも別のところに移行するほどフットワークも軽くないし、何よりあてもないのでしばらくはこのまま続けてみる。なんつーかな。なんつーかだよな。なんかさあ。ほんとさあ。どうしてこうにも嫌な世界なんだろう。多分出来なそうなことなので自信もって言えるけど、とてもとてもTwitterやめたい気持ちでいっぱい。朝起きて起き抜けにジャンププラスで公開された藤本タツキの読み切り『ルックバック』を読んだ。自分はタランティーノの『ワンスアポンアタイムインハリウッド』が心底好きなので、それにも通じる芸術や表現を信じる気持ちのようなものに素直に感銘を受けた。何度も読んでその形式や手法にも驚かされた。単純に好きだった。もちろん現実に起きた悲劇を想起させるモチーフが出てくるのでそれに対して痛みを感じたり、拒否反応が出たりする人がいても当然だと思うし、素直に受け入れられないという気持ちもわかるような気がする。自分のTwitterのアカウントのタイムラインもかなり盛り上がっていた。ひとしきり第一波のようなものが終わると、いやみんな大絶賛してるけどこれってどうなのよ。みたいなものも流れてくる。その中には単に冷笑気味な含みがある言葉もあれば、「そうかも」と思わせる理由でそれを綴っている人もいた。もう少し時間が経つと、最近のオリンピック音楽担当者のゴタゴタと合わせて、「みんなが何かを一斉に叩いたり、かと思えば一斉に絶賛している空気が受け入れられない」みたいな言葉が流れてきた。いよいよどうしたらいいかわからなくなった。自分は何かを言葉にするときに「みんな」に参加してるつもりなんてない。なにより、おれがこれをどんな風に良いと思ってどんな風に心が動かされているのか知ってんのかよ、って思った。あなたの窓から見たらおれの言葉も単にそこに流れてくるその他大勢の言葉のひとつなのだろうけど、その奥には人がいることを忘れちゃいけないと思うし、自分はそう思いながら見てるつもりだ。なにかを好きだってことも別の何かに絡め取られる世界ならもうそこに言葉は放ちたくないと思った。と思いながらどうせ流れていくであろうこの言葉を最後に投げてみる。