anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2021.04.23(吸う自由)

もうどうでもよくなった。よくなったんです。一年前、やるせなさと絶望感と怒りにまかせて書いた言葉とまったく同じ気持ちになるとは思ってもみなかった。それも当たり前のこと。自分自身も変わってなければ自分の大切なものも変わっていないし、自分をとりまく社会(のようなもの)も何ひとつ変わってないのだから。それでもこの一年間で少しずつ、でも確かに好きなものや好きな場所が死んでいくのを目にしてきたし、今だってその寸前みたいな状況下でなんとか繋ぎ止めているのを肌で感じる。いくらクラウドファンディングで支援したって、配信ライブを見たって、足繁く映画館やライブハウスや劇場に通ったって無力感はなくならないし、事実こうなってしまったらもうどうにもならない。なんで?なんでこうなる?本気でよくわからない。「ロジカル」なんて仕事の中で大事なことであって生活にそんな言葉は持ち込みたくないけれど、こうも破綻した論理で権力を振りかざされて好きなものを奪われるんだとしたら、それはもう尊厳を奪われることと同じなのでは?とか思い詰めたふりをしてみる。こんな言葉はYogiboの上で横になりながらiPhoneフリック入力する言葉じゃない。どうでもいい。本当にどうでもいい。

先日、ラッパーのKOHHのライブに行った。2020年の初めに引退宣言をした彼のラストツアーだった。しかし度重なるライブの延期が理由なのか、元から引退なんて冗談みたいなものだったのか、そういう重要な意味合いはとっくに消え失せていて、普通にただのツアーの一箇所のただのライブ、みたいなものだった。観客が間引かれたスタジオコーストはフロアが細かくブロック分けされていて、なおかつ床にはテープでマス目が引かれていた。距離をとってこの中で楽しんでください、という意味の線だ。当たり前に全員マスクをしているし体温を測って入場している。開演前SEで流れているUSのラップにいい感じに周りの若者たちが身体を揺らしたりShazamしたり、むちゃくちゃいいバイブス。最高。開演直前になるとイベンターの男の人がステージに上がって再三の注意を促す。ライブ中は声を上げないこと。マス目を出ないこと。世の中の言う不謹慎であることは承知しているけれど「寒いことすんなよ」と心から思った。んなことわざわざ直前にステージに上がって言ってんじゃねぇよと、もうこっちはマインドで楽しもうとしてんだから!水差さないでよ!と内心プンプンになった。

しかし、ライブが始まってみたらどうだろう。ステージに登場したKOHHに沸き立ち普通に歓声は上がっているし、自分は後方だから見えるけど明らかに前方はマス目を無視した状態になっている。これが正しくない状態なのはわかる。ライブ後に苦言を呈してた人がいるのにも頷ける。それが「不謹慎」であるのもわかっていながらだけど、自分はこれで良いと思ってしまった。「これが良い」かもしれない。コロナ禍以降、何度かライブハウスでライブを見てもどこか乗り切れずにいたのは、やっぱり自分が過去の「あの時」を求めていたからなんだと実感した。もしくは、正しさみたいなものが規律のように求められるばかりにそれを踏み外すと糾弾されることに辟易としていたからかもしれない。もう正しさなんてどうでもいいと思っていたのかもしれない。それは決して良いことではないけれど、やっぱり自分は正しさだけの線にはいつまでも乗っていられなかった。新しい生き方、新しい生活様式、時代に合わせた生活。はあ。そうかもね。それが良いのかもしれない。そうしなきゃ駄目なのかもしれない。みんな器用に生きられていてすごい。自分はむりかも。むりかもなあ。

日曜日から映画館は止まる。美術館は止まる。行く予定だったオダウエダの単独ライブは中止になる。当たり前に居酒屋は暖簾を下ろす。公開を待った映画は何度も何度も延期される。仕方ないと人は言う。仕方のないことなんてない。なにひとつない。

月曜日、電車は動く。何平米かもわからない車両は人を乗せて都市を跨ぐ。会社に集まった人たちは灯りの消えた街に帰っていくのでしょう。これが正しい姿なんだとしたら、もうどうでもいい。本当にどうでもいい。今日も元気でやってます。