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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2019.09.16

スーパーでの買い物にこなれてくると自分の暮らしが形成されてきてるんだなぁと思う。少し前までは一人暮らしで消化できる量の食材がまったく想像できなくて一回分の鍋の食材を買うだけなのに平気で2000円以上も使ってたりしててレジで驚愕し、結局お腹がパンパンになるほど食べて後悔することばっかりだった。最近は、えのきはハーフで十分とかお肉は一番小さいパックで十分とか、日持ちする野菜はこれとこれ、とかちゃんとわかるようになってきた。チャーハンは醤油かけなくても十分味がつくこととか卵とご飯を先に混ぜておくとパラパラになるとかもわかるようになってきた。うわー暮らしてるわーって感じがする。

三連休だったけど来週名古屋に小旅行に行くので今週はわりと大人しくしてた。金曜夜に友達と会って赤羽から葛飾までドライブしながら途中でコンビニに寄って話したりした。なんか飲み物いる?って言ってコンビニで信じられないくらい小さいサイズのアクエリアスを買ってくるボケに最近ハマってる。コンビニ行ったら見てみてください。信じられないくらい小さいアクエリ。気まぐれに腹筋とかしてみたら速攻で腹筋も股関節も痛くなって動く気力を失ってしまった。

日曜日はまた草加健康センターに行った。会社の同期に全力でプレゼンしたら何人かが行きたい!って言ってくれたので一緒に。爆風ロウリュがあまりにも熱すぎてみんなでひーひー言いながら水風呂に飛び込んだ。しっかりととのって宴会場でご飯を食べた。生姜焼き定食が死ぬほど美味しかった。宴会場のカラオケで知らないババアの歌うたかじんの「泣いてもいいか」が最高すぎてちょっと泣きそうになった。

べしゃり暮らし」最終回。なんとか意地で完走したけどなかなかに辛かった。漫才って演じてると思うとよっぽどネタが面白くない限りクソつまんなく感じてしまう。もちろん本物の芸人だって台本があって漫才をしてるわけだけど、それを感じさせないから面白いわけで。コントだったらまた話が変わる気がするんだけどね。うーん。難しい。

「だから私は推しました」最終回。憧れの対象、または好意の対象といとも容易く握手という形で繋がれてしまう今、誰かと手を繋ぐことの困難さとその重みを徹底的に描いていた。好き。「握手」という行為が相手を信じること、そして自分を信じることに変換されていく。誰かや何かが好きという想いは同じなのにそれが故に争ってしまうという、これもまた"Father of the Bride案件"でした。(いつかの過去記事参照)惜しむらくは、アイとハナは地下(日陰)で出逢った2人なのだから太陽の下(理想を言えば沈む夕焼けの下)手を繋ぐシーンが欲しかったということだけ。

「凪のお暇」7〜9話一気見。ちょっと食傷気味に感じつつも不意に良い瞬間が訪れるから止められない。ぬか漬けが物語を動かす象徴的なアイテムになってて良い。

今週末にシャムキャッツの夏目さんのイベントに行く。『シャムキャッツ・夏目知幸が送る 10年分の歌とことば』と銘打たれたイベントで、これまでのディスコグラフィーを振り返ってトークをするらしい。なんとなく申し込んだのだけど、渋谷ヒカリエのmadoで観客30人で行うイベントだと知りそんな規模感のやつなんだ…!と今震えているところ。フォームから当日扱われる質問を募集していたのでこんな質問をしてみました。もし幸運にも回答がもらえたらこっそり教えてあげる。

「AFTER HOURS以降の歌詞と比べると初期の歌詞は一筆書きの勢いのようなものと、あえて歌詞の世界に枠を作っていないような印象を受けます。固有名詞は多く登場するけど輪郭がぼやけているような不思議な感触が好きです。例えるなら「はしけ」〜「たからじま」までは電車の窓から通り過ぎる景色を眺めているような感覚で、「AFTER HOURS」以降は部屋の窓から世界を眺めているような感覚があります。初期の頃と現在ではお住まいや生活圏内に変化はありましたか?またそれは歌詞に影響を与えていますか?」