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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

耳をすませば - 『カルテット/第1話』

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なんたる瑞々しさだろう。一年前の「いつ恋」とも違う。男女4人という点で共通する「最高の離婚」ともまた違う。圧倒的な会話の面白さ、とびきりキャッチーなのにどこか不穏で何かイビツ。例えば「最高の離婚」の会話劇がメラメラ燃える赤い炎だとしたら、「カルテット」におけるそれはユラユラ揺れる青い炎のような。はー!みぞみぞしてきた!

 

まずタイトルバックまでの冒頭の約15分まででかなり濃密。巻真紀の登場シーンの赤いキャリーバックの存在感はなんだろう。モノトーンで抑えた衣装でまとめているのに、あの赤が挿されると何か強烈に違和感を覚える。「旦那さん」ではなく「夫さん」と口を揃えて呼ぶ二人。なんだこの違和感は。小鴨が排水口に落ちる動画?なぜ?と坂元裕二的フックがめちゃめちゃ仕掛けられている。そして、「唐揚げにレモンをかけるのか、かけないのか」という会話を軸におおよそ4人がどういった人間性なのかを描いてみせる。このパートは台詞回しや掛け合いとして単純に楽しいし面白いのだけど、後に明かされる事実も踏まえても単なる"面白い会話"で済ませてしまうのはやっぱりつまらない。グッと熱量を抑えた、ある種の冷気をまとったような(軽井沢のロケーションもここで効いてくる)会話はやはりドーナツの外側でしかない。テンポのいい会話が弾み、転がっていけばいくほど、真ん中にある「穴」の存在が浮かび上がってくる。例えばあえて語られなかった誰かの過去であったり、言葉にできなかった気持ちがそうだ。人と人との隙間もそう。

人と人との間にある隙間を、これまでいくつも坂元裕二作品は描いてきたと思うのだけど今作もまた「同情」や「思いやり」総じて「他人を想像すること」を通してそれを描く。レモンをかける人とかけない人、画鋲を使う人と使えない人、夢を諦められない人と夢を捨てた人。でも、お互いを想像しあったって、同情したって私は別の誰かにはなれない。完全な理解なんてできない。

 

「じゃあ、別府さんと家森さんがベンジャミンさんの家で暮らしてあげればいいんじゃないですか?」

「ベンジャミンさんの奥さんと息子さんになってあげればいいんじゃないですか?」

「じゃあお金あげればいいじゃないですか」

「じゃあ面白い漫画とか貸してあげればいいじゃないですか」

「家森さんも鼻毛伸ばせばいいじゃないですか」

「鼻毛に見える刺青彫ればいいじゃないですか」

「刺青彫る勇気ないなら、同情やめたほうがいいです」

 

と、すずめが言うように。誰かの気持ちを完全に理解なんてできない。というかそもそもそれに意味はあるのだろうか?ということが突きつけられる。でも、それでもやっぱり誰かを想像することを、人と人との間を超えて手を取り合えることを諦めようとしていない姿を(不恰好だけど)描いてやろうという熱意がこのドラマからはひしひしと感じられてものすごく期待してしまう。「逃げ恥」で夫婦を超えて誰かと誰かが恋をし、繋がることを描いたその直後に、「夫婦とは別れられる家族だ」と言い切ってしまっているけれども、なんだろう。だってきっと耳をすませば、聞くことを諦めなければ、どこかの誰かとの間にある、小さな声がかすかに聞こえてくるはずなのだ。このドラマはそれを微塵も諦めちゃいないはず。