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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2016年マイベストムービー30 [1~10]

10. ズートピア

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動物が人間のように暮らす大都会、ズートピア。誰もが夢を叶えられる人間も顔負けの超ハイテク文明社会に、史上最大の危機が訪れていた。立ち上がったのは、立派な警察官になることを夢見るウサギのジュディ。夢を忘れたサギ師のニックを相棒に、彼女は奇跡を起こすことができるのか…?

種の違いというマクロな差別と先入観というミクロな差別。どれも他人事ではない。「差別はよくないよ」って口で言うことは簡単だ。それにもうそんなこと言われなくてもみんなきっとわかってる。頭の中では周知の事実。なのに、世界を良くしたいと願う至極真っ当なウサギのジュディですら知らず知らずのうちに線を引いてしまう。じゃあどうするのか。その一つの解答となるジュディとニックの会話が行われる場所が橋の下というのがなんともニクイ。頭のいい人たちがいっぱいあつまって、それでも頭を捻らせて、問題に真正面から向き合い逃げずに(これが一番大事)映画を作ると、きっとこんないい映画ができるんだろうな。

 

 

 

9. ヒメアノ~ル

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平凡な毎日に焦りを感じながら、ビル清掃会社のパートタイマーとして働いている青年・岡田。ある日、同僚の先輩である安藤から、密かに思いを寄せるカフェ店員・ユカとの恋のキューピッド役を頼まれた彼は、ユカのカフェで高校時代の同級生・森田と再会することになる。その後、岡田はユカの口から、彼女が森田らしき人物からストーキングをされていることを知らされ、不穏な気持ちを抱き始める。かつて過酷ないじめを受けていた森田は、ある事件をきっかけに、欲望のままに無抵抗な相手を殺害していく快楽殺人者になっていたのだ……。

殺意は、改札を抜けたすぐそこにある。漫画喫茶の壁一枚隔てたすぐ隣にある。コーヒーショップの向かいの席にある。でもそれはどこからともなくやってくるわけじゃなくて、普通の人の中から、たった一つのボタンの掛け違いで生まれる。いやー。いるよね。なんでかよくわかんないけど話さなくなってしまった元友達。正直、今年一番瞬間風速的に一番涙を流してしまった映画かも。詳しくは以下の記事で。原作のラストよりも断然こっちのラスト派です。

 

 

 

8. 葛城事件

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親が始めた金物屋を継いだ葛城清は、美しい妻・伸子と共に2人の息子を育て、念願のマイホームも建てて理想の家庭を築き上げたはずだった。しかし、清の強い思いは知らず知らずのうちに家族を抑圧し、支配するようになっていた。長男の保は従順だが対人関係に悩み、会社をリストラされたことも言い出せない。そして、アルバイトが長続きしないことを清に責められ、理不尽な思いを募らせてきた次男の稔は、ある日突然、8人を殺傷する無差別殺人事件を起こす。死刑判決を受けた稔は、死刑制度反対を訴える女・星野が稔と獄中結婚することになるが……。

家とは、家族とは、団欒とは、食卓とは。そして、罪とは。罰とは。食卓のシーンが何よりキツイ。コンビニのそば、宅配ピザ等々何を食べているのかはっきりとわかるものがたくさん登場するのに、ちっとも美味しそうじゃない。なんなら不快。別にインスタント食品や出来物を食べてる家庭が駄目だとは思わないれど、同じ食卓で同じものを顔を向かい合わせて食べる、ということは間違いなく大事なことだよなあ。そういった、食の描写もさることながら、前作「その夜の侍」の中でも述べられた「なんてことない会話」が致命的に欠落した様子が何より痛かった。そして、それをほんの一瞬、ほんの一瞬だけど取り戻しかけるシーンの切なさが尋常でない。

 

 

 

7. シング・ストリート 未来へのうた

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1985年、大不況のダブリン。人生の14年、どん底を迎えるコナー。父親の失業のせいで公立の荒れた学校に転校させられ、家では両親のけんかで家庭崩壊寸前。音楽狂いの兄と一緒に、隣国ロンドンのMVをテレビで見ている時だけがハッピーだ。ある日、街で見かけたラフィナの大人びた美しさにひと目で心を打ちぬかれたコナーは、「僕のバンドのPVに出ない?」と口走る。慌ててバンドを組んだコナーは、無謀にもロンドンの音楽シーンを驚愕させるPVを撮ると決意、猛特訓&曲作りの日々が始まった-。

ステージからあの娘の顔が見える。隣を見ると、後ろを見るとあいつがいる。そんな瞬間。今自分が出している音が、まぁダメかも知んないけど、なんかあの好きな音楽に近づいてるんじゃないかな、みたいな。(「桐島、部活やめるってよ」より)そんな瞬間。音楽に関して、こんなクソ真面目なこと言いたかないけど、生活が音と詩に昇華されるって本当に美しい。男子校での鬱屈した日々とか嫌でも自分に重ねてしまう。家庭での嫌なことも、将来への不安も、あの娘が好きってことも、ぜんぶ音楽になる。それは、間違いのない事実だ。恋人かバンドか?コナーが最後にした選択は決してそんな二択じゃない。彼が選んだのは既に拓かれた道じゃなくて、荒れ放題の「ここではない何処か」じゃないか。だから、その道を選んだコナーの背中を、兄貴が優しく、でも力強く押してあげるシーンには涙が溢れてしまう。

 

 

 

6. FAKE

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佐村河内守氏の自宅でカメラを廻し、 その素顔に迫る。取材の申し込みに来るメディア関係者たち、ことの真偽を取材に来る 外国人ジャーナリスト...。市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならば この「ゴーストライター騒動」は、社会全体が安易な二極化を求めていることの徴候と 見ることもできる。はたして何が本当なのか? 誰が、誰を騙しているのか? 映画は、この社会に瀰漫する時代の病をあぶりだしながら、衝撃のラストへとなだれ込む。

誤解してはいけないのはこの映画は真実を暴こうとする映画なんかではないということ。というかそもそも、佐村河内さんが本当に作曲出来るのか、聴覚障害があるのか、について白黒はっきりさせたいと思っている外野の人っているのかな?最後の最後の瞬間まで、この映画は判断を観客に委ね続ける。これまで各メディアからは与えられなかった判断材料を与えて、さぁあなたはどう思いますか。と突きつけられる。そう。だから考えなければならない。テレビから垂れ流される情報によって「嘘をついていた人」という記号となってしまった佐村河内守という人間は、本当は豆乳が好きで、猫が好きで、「ちょっと煙草吸いに行きませんか」なんて言ったりする人なのだ。それが真実を判断する材料になるかというと、そういうわけではない気もするけれど、彼が僕らとなんら変わりない一人の人間であることはわかる。では彼を擁護するのかというと、それはしない。やはり彼は嘘をついているという判断を僕は下した。もちろんそれ以上に彼を断罪する権利なんてないしする気もないけれど。彼は嘘をついて1を99にしていたのに、"でも0ではない"ということに固執し被害者面をしている。彼の日常は、弁解し、自分を擁護するだけ。だった。あの言葉が突きつけられるまでは。僕が堪らなく好きなのは「どん底までやらないことを選び続けてきた人間が、醜くもがきながら遂にやることを選ぶ」瞬間だ。恐らく自分にも似たところがあるからだと思う。だからまさかこの映画でそんな瞬間を目にするとは思っていなくて、虚をつかれたと同時にがっちり胸をつかまれた。ただ、そんな瞬間すら幻だったのかと思えてしまうような突き放したラスト。でも現実だろうが幻だろうがそんなことはどうでもいい。佐村河内さんをきっかけに収まるどころか、よりひどくなってませんか?誰かを晒してレッテルを張るの。

 

 

 

5. 何者

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演劇サークルで脚本を書き、人を分析するのが得意な拓人。何も考えていないように見えて、着実に内定に近づいていく光太郎。光太郎の元カノで、拓人が思いを寄せる実直な瑞月。「意識高い系」だが、なかなか結果が出ない理香。就活は決められたルールに乗るだけだと言いながら、焦りを隠せない隆良。22歳・大学生の5人は、それぞれの思いや悩みをSNSに吐き出しながら就職活動に励むが、人間関係は徐々に変化していく。

自分も今年の3月から彼らと同じように就活をしていました。でもポジションとしては理工学部の院生であるサワ先輩に一番近いかな。何十社も受けたりはしてないので所謂楽をしている方なのかもしれない。それでも就活の辛さは感じたし、なりたいものなんて別にないし、こんなシステムなくなってしまえと思いながらいつのまにか内定もらってたみたいな。でも、今思い返しても例えば面接中のあそこに"自分"はいたのかな。うん。でもなんかこの映画を「人間怖い!」とか「ホラー!ホラー!」とか騒ぎ立てるのはやっぱり違うような。だって程度はどうあれ、やっぱり拓人みたいなことも理香ちゃんみたいなことも隆良みたいなところも絶対あるでしょ?こう言うのは違うかもしれないけど、それって普通だよ。やっぱり。特別なことじゃない。俯瞰で観察者でいるのは気持ちがいい。評論家ぶって何かを語ったりして(今まさに胸が痛い)。何もそれが悪いとかじゃなくてね。でもね、やっぱり誰かが何かを選び取る瞬間ってそれだけで美しいと思うんです。それが「やる」という選択であれ「諦める」という選択であれ。僕は以前の拓人を否定なんてしなくないし(それはどこか自分を否定することにもなるし)、スタートラインに立った彼を心から応援したい。おれもここから歩くよ。でも、この映画をダメだって言う人の気持ちもわからなくもないんです。映画的に特別良いかっていうとそれもそんなことなくて、フックの「あそこ」はまさしく映画じゃないとできないことだと思うけど、にしたってそこに至るまでは退屈なところもある。喋りすぎってのもそう。ラストの瑞月ちゃんの告白とかは特に「視線のやりとり」が美しいのであってそこ言っちゃうんだ…みたいな。あ、あとこの映画はSNSやってて就活やっててって人にだけ刺さるようなそんな狭い的じゃないはず。「何かになる」とか「周囲と自分」とかこれ以上ない普遍的なものだよきっと。

 

 

 

4. キャロル

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52年、冬。ジャーナリストを夢見てマンハッタンにやって来たテレーズは、クリスマスシーズンのデパートで玩具販売員のアルバイトをしていた。彼女にはリチャードという恋人がいたが、なかなか結婚に踏み切れずにいる。ある日テレーズは、デパートに娘へのプレゼントを探しに来たエレガントでミステリアスな女性キャロルにひと目で心を奪われてしまう。それ以来、2人は会うようになり、テレーズはキャロルが夫と離婚訴訟中であることを知る。生まれて初めて本当の恋をしていると実感するテレーズは、キャロルから車での小旅行に誘われ、ともに旅立つが……。

誰かが恋に落ちる瞬間を見てしまった。突き詰めればそんな映画だ。語弊を恐れず言うなら、同性愛をあざとく描く映画って結構あると思う。でも2016年という時代に同性愛は別段珍しいものでもなくて、世間の目に晒されて困難に苦しむっていう話は(あくまで)映画としての面白味はないと思う。そんな中でこのキャロルの素晴らしいところは、そういう執拗な同性愛目配せを一切描かずに、まっすぐな純愛を描いているところだと思った。というよりも「自分を偽らずに生きる」ということをまっすぐに描いている映画だったからかな。そこに一切の迷いがない描き方が出来るのは、当たり前のようなことであり、でも何よりも強いことだと思う。同時期に公開されていた「リリーのすべて」もいい映画だったとは思う。でも「本当の自分になる」ことと「自分を偽らない」ってことはとても似ているようでいて、何か決定的に違うような気もする。「この人が好きだ。」そんな思いの先にいた人が、ただ同じ性別の人であった。それだけのことなのだ。50年以上の時を超えてふたりの恋が今に繋がったんだと思うと、こんな時代も悪いことばっかりじゃないね。

 

 

 

3. ハドソン川の奇跡

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09年1月15日、乗客乗員155人を乗せた航空機がマンハッタンの上空850メートルでコントロールを失う。機長のチェズレイ・“サリー”・サレンバーガーは必死に機体を制御し、ハドソン川に着水させることに成功。その後も浸水する機体から乗客の誘導を指揮し、全員が事故から生還する。サリー機長は一躍、国民的英雄として称賛されるが、その判断が正しかったのか、国家運輸安全委員会の厳しい追及が行われる。

何よりもまず「映画を観た」という感覚にどっぷり襲われた。自分が映画の中に観たかったもののすべてが詰まってるようだった。当たり前のように言われる、「一人一人が生きていること」とか「手を繋ぐこと」とか「助け合うこと」ってやっぱり当たり前じゃないのかもしれない。それでも間違いなく尊ぶべきことなんだよ。96分という尺ゆえに、サリーに差す光と影や、鏡、カメラ、ひいては河の存在のひとつひとつが意味を持って動き出して、エンドロールの"155"という数字が持つ大きな意味に直面した時にはちょっともう涙を堪えられなかった。

 

 

 

2. ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー

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銀河全体を脅かす帝国軍の究極の兵器<デス・スター>。その設計図を奪うための反乱軍の極秘チーム<ロ―グ・ワン>に加わった女戦士ジンは、希望を取り戻すため、仲間と共に97.6%生還不可能なミッションに挑む。『エピソード4』の冒頭でレイア姫R2-D2に託した<デス・スター>の設計図は、いかにして入手されたのか?

スターウォーズ作品として、とかではなく一本の映画としてこんなに胸をかきむしられるとは思ってもみなかった。事前には、プリクエル然り終着点の決まってる話なんてエピソード7やった後にやる意味あるかねー。とすら思ってたのだけど。確かに物語の前半部はなかなかエンジンがかからず、ここいる?みたいな部分も多かったのだけど(謎のタコみたいなやつとか、なんならあのテロリストのおじさんもなくても成立したような)、それを帳消しにする中盤からの流れ。そう。これは何かを「繋ぐ」物語なのです。それはもちろん希望であり、自分が生きてきた意味でもある。それが「設計図」という容れ物に込められ、恐らく孤独に生きてきたであろう彼女や彼らを、そして名もなき戦士たちをリレーする。先人が灯した火を消さないように、火をくべ、また次の誰かに届ける。自分の火がいつか何処かの誰かに届くことを祈る。これってまさに「スターウォーズ」じゃないですか???そんな想いが画面いっぱいに満ち溢れた、ラストの浜辺でのあのシーンがもう、最高に好きだった。映画の完成度でいったら「ハドソン川の奇跡」や「キャロル」の方が高いと思うけれど、描こうとしていることのテーマや熱量でどうしてもその上におきたかった。

 

 

 

1. この世界の片隅に

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昭和19年、故郷の広島市江波から20キロ離れた呉に18歳で嫁いできた女性すずは、戦争によって様々なものが欠乏する中で、家族の毎日の食卓を作るために工夫を凝らしていた。しかし戦争が進むにつれ、日本海軍の拠点である呉は空襲の標的となり、すずの身近なものも次々と失われていく。それでもなお、前を向いて日々の暮らしを営み続けるすずだったが……。

人の手で犯した過ちを、人の営みを、人の手で描き、人の手で世に広げる。映画の成り立ちからもうすでに何か異常な力を持っている。今日2回目の鑑賞を終えたのだけど、その情報量の多さにとにかく圧倒されるばかりだった。拙いですが、全ては下の記事に詰めたつもりです。どうぞ。 


 

 

まとめ。いやね、今年とことん意識したことがあって。映画の感想で「考えさせられた」「深い映画だった」とか、どうしてもそういう結論になってしまいがちなのだけど(実際今までは多々そうなっていた)、その結論にならないように、「何を」考えさせられたのか、「何が」深いのか、を思考しようと意識した。いや、当たり前のことかもしれないけど。もちろんそれでも言葉にならないこととか説明できない気持ちとか山のようにある。それはそれで大事にすればいい。でも映画の評価をただ数値化することにやっぱり意味なんかなくて、稚拙と思われようが自分の気持ちを言語化することに意味はあるのだと思う。

そんなことは置いておいておこう。映画っていいよね。映画館っていいよね。映画館の匂いって昔から好きだ。あの匂いは其処にしかない。ポップコーンの匂い?んー、それだけじゃなくって何か絶妙な。僕の地元には大きなシネコンが一つあるだけなので、自ずと大体の映画はそこで見ることになる。もう10年も行っていることになる。古き良きミニシアターとかではないので、何か特別なことがあるわけでもないけれど10年もあるといろんな思い出が多少なりとも詰まっているものです。初めて友達と行った映画とか、デートで行った映画とか、見に行ったけど寝てしまった映画とか、貸切状態で見た映画とか、終わったあと「クソだったなー」と友達と笑って出てきた映画とか、泣きながらトイレに駆け込んだ映画とか、なんだかよくわからなかったなーってなった映画とか。いろいろ。就職というタイミングで来年の春にはここを離れることになってしまうのだけど、そう考えるとなんとなく寂しい気がする。別に、どこかに行ったらまた別の映画館がある。そりゃそうなんだけど、なんかそこにしかなかったものとかもあると思う。そういうの忘れたくない。映画っていいよね。

 

 

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