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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022.03.07(書いてもいい)

土曜日の夕方、3回目のワクチン接種をして寝て起きたら身体が熱くてたまらなくて、あー熱あるー。な感じを久しぶりに実感した。同時に布団に入ってないとガタガタ震えてくる寒気もあってめちゃくちゃつらかった。結局一日半くらいは熱が下がらずに薬を飲んだり寝たりを繰り返していた。

それとは別に読んで良かった本について書きたかった。

 

なぜかうちの職場はお昼休憩の時間だけdocomoの回線が死んでしまいネットワークにまったく接続出来なくなるので、手持ち無沙汰から何かオフラインでもできることはないかなと思い、Kindleならスマホで本読めるじゃん!となってこの本を買った。紙の本は持ち歩いてるとすぐ忘れるのでこの場合は電子書籍がやっぱり良かった。

読みながら、とても勇気をもらった。内容はとても丁寧かつわかり易く書かれた批評文の指南者なのだけど「感じたことを言葉にすること」を強く肯定されているように感じた。それが自分の勇気になって強く背中を押してもらえた気がした。

映画にしても、音楽にしても、小説にしても、そのことについて語るときに自分なりに感じたことを文章にしたり、もしくは誰かに話したりすると「深いね」と言われることがある。釈然としないしそんなことは全くない。そもそも深いってなんだ。もしくは小難しいことばっか考えて、もっと気楽に見ればいいのに、みたいな空気は確かに世の中にある。

あなたが自分の作品を紹介する時に「感動した」とか「面白かった」とか「考えさせられた」みたいなぼんやりしたことを言ったとして、あなたを知らない人はその作品に手を出してくれるでしょうか?

たぶん手を出してくれないと思います。あなたをよく知っていて信用している友達であれば、一言「感動した」と言って薦めれば見てくれるかもしれませんが、世の中の人間のほとんどはあなたの友達ではありません。

さらに、友達であってもその程度の一言二言では興味を持ってくれないかもしれません。

別に自分は商業誌に批評文を寄稿しているわけじゃないし、自分の好きで書いているだけだけど引用した上の文にはとてもシンパシーがある。結局自分は誰かと繋がりたいし言葉を交わしたいから何かを書いている節がある。そのためには言葉はとても強い武器だと思ってる。

同時に他者や社会と繋がらない、自分だけの好きや嫌いを自分の中で大事にしたいからこそ出来るだけその対象を見たり読んだりして言語化したいと思ったりもする。みんながそうしたほうがいい、とは思わないけど、そういう話がしたいとは思う。

という自分語りは置いておくとしても、そもそも「批評」というと堅苦しくて高尚なものとして捉えられがちなそれを、ライトで手に取りやすいものとするための技術と手法の読み物としてとても優れた一冊だった。

自分の"優れたもの"の定義のひとつは、主題と手法が一致していること。

映画で例えるなら、ジョナサン・レヴィン『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』における、2人に起きてることが世界に起きてることであることを表すためにズームしたカメラが引いていき俯瞰になる手法で撮影されていることとか。

この本もまさにそうで、批評文をいかにして書くか、という文をそのテクニックを実際に取り入れながら書いてあるので実感としてとても腑に落ちやすい。

書きたいけど、書けない。言葉にしたいけど、わからない。に陥った時には何度も手に取りたい本になった。

 

 

町枝圭吾、24歳。京都市内の観光ホテルで働いている。

圭吾は、恋愛をすることが怖い。自分の男性性が、相手を傷つけてしまうのではないかと思うから。
けれど、ある日突然出会ってしまった。あやめさんという、大好きな人に――。

意を決した圭吾の告白に、あやめさんはこう言った。
「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」
ポリアモリーとは、双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと。

あやめさんにはもう一人恋愛相手がいるらしい。“性の多様性”は大事なのはわかるし、あやめさんのことは丸ごと受け入れたい……けれど、このどうしようもない嫉妬の感情は、どうしたらよいのだろう?

引用するには些か長いコピー文だけれど、これを読んだ瞬間絶対に読まなきゃいけないと思った。絶対読みたいと思った。近年でいうと、男性が自分の男性性を見つめ直す作品は比較的あるけれど、それに対する嫌悪やある種の恐怖を持った男性の目線の、さらに言えば恋愛小説というのは自分の知る限りなかったし、やっぱりそれもシンパシーを感じるものだったので絶対に読みたいと思った。言葉を変えれば、そういうものが書かれただけで嬉しかったりもした。

前作『おもろい以外いらんねん』では"お笑い"という表現で同じことを描いていたように思うけど、こと恋愛というテーマによって反射するそれはより痛くて醜くて逃げられなくて、でも同時に確かにある自分の部分として見えたりもする。誰かのことを受け入れようとすることは、自分のことを受け入れてほしいというエゴになり得る。大前さんは感情移入する器として用意された主人公に対する批判的な眼差しを絶妙な距離感に常に配置していて、今作で言えば青木さんという人物がそうだと思うのだけど、多くは語られない彼女の行間にある時間のことを考えたりした。

身につまされるという意味では、ある人物から発せられるこの言葉に自分を見る部分があってぎくっとしたりした。

心が、たとえばこう、スイカくらいの大きさだとすると、今のさびしさはちょうどこのひとさし指くらい。

たいしたことないんですよ。でもどうしても目に入っちゃうし、どうしてもひとりだと埋められない。

さびしさの穴はいくつも空いてるんです。別の穴は親指だったり、小指だったり、薬指だったりする。(略)

臆病だから、それぞれの穴を埋めてくれそうな人を見つけると、つい好きになっちゃう。

コピーにあるような"性の多様性"についての物語というよりは、やっぱりそもそも"好きって何?"って話に収束(もしくは発散)していくのがとても胸痛くも心地良いと思った。作中での走ること、掃除すること、料理することがそれを立体的にする視点としてあるような気がする。これはまだ気がするくらい。自分の人生において常に手に取れるところに置いておきたい本になったし、同年代の書き手として大前粟生さんの書いたものはリアルタイムで追えることを嬉しいと思った。

2022.02.23(本を作ろうとした、3日目)

どんな本にしたいかとか、自分が今まで書いた文章をまとめながら考えていたら、全体を貫く一個のテーマが見つかったのでそのことを書きたくて序文的なものを書いたらとてもやる気が出た。その勢いで、試しに紙に印刷してみたいなと思ってコンビニにデータを持ち込んで印刷した。白黒でA4に2in1で両面で印刷しても500円くらいしてマジかよとは思いつつも紙になって手にするとやっぱり気分が上がる。手に取りながら読んで、改めて誤字脱字をチェックしたり、そもそもサイズはどれくらいがいいのかとか、余白はこれくらいでいいのかとかを考えたけど、またよくわからないゾーンに入った。何かとてもすごいことを成し遂げてるようだけど、事実としてやったことは、今まで書いたものをまとめてちょっとプラスα付け足して、紙に印刷しただけ。まぁそれでもちょっとずつ出来てる。そんくらいでいいか、と自分を甘やかしながらやってる。