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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2022.2.14(好きな映画ってなに?)

と聞かれるととても困ってしまう。最近見た映画なに?なら対象が絞られるのでまだ良い。例によって自分は自意識モンスターなので、そんな質問されたら相手が知らない映画答えてもなぁとか、知らない映画答えて、マニアックなやつ知ってまっせな感じねって思われたらどうしようとか本当にクソどうでもいいことを考えてしまうタイプなので「…バックトゥザフューチャー…」と答えてしまう。でもこれも嘘じゃなくて本当に好きな映画です。普通に人はそんなこと思わないしパッと答えて、ここが好きだからって言えたら良い。でもなかなか誰かを前に言葉にして口で発して伝えるのは難しいと常々思う。よっぽど嫌いな映画についての方が饒舌に語れたりもする。これは本当に良くない。

なんでなんだろう。好きなことは確かなのになんで好きなことについて誰かに話すのってちょっと口をつぐんでしまうんだろう。と、いつも読んでいるある人のブログを読んで考えたりした。自分の場合はそれが強い自意識による部分が大きいからだとは思いつつ、本当にそれだけなのかな?と今日一日心のどこかで考えながら思ったりした。なんとなくだけど、心に強く秘めてる想い(のようなもの)が言葉になって口から出た途端にこの空気中に散って溶けてしまう気がするから、みたいな部分もあるかもしれないと思ったりもした。でも一方では、この想いを不恰好でもいいからなんとか言葉にして残したいという気持ちもある。だからこんな形でいつも文章を書いたりするんだと思うし、Filmarksとかにちまちま書いたりしてるんだと思う。そしてやっぱりりそれを誰かに読んでほしいし見てほしいからやってるんだと思う。

 

ちょっと感情強すぎるからもっと俯瞰して見る。特定の映画でオールタイムベスト的に好きなものをただ挙げても仕方ないので、根本的に"どんな映画が好きなのか"について話したい。これなら話せる。

「人が何かを選び取る瞬間が映っている映画」がすごく好きだと思う。それは生きていく上で何かになったり、誰かを好きになったり、もしくは何かを諦めたりすることだっていい。その人が自分の意思である一つを掴んだり、手放したりする瞬間が映っていてほしい。

 映っていてほしい。と言っているところにも表れている通りで、自分は基本的に映画を支配しているのが物語よりも映像であってほしいと思ってしまうのです。動いているものが、動かないスクリーンに映っていることに感動したい。例えば動いている車が止まって、一人が車を降りて、もう一人はその車に乗ってまた遠いどこかに行くとか、2階にいた人が階下を見下ろして誰かと目があったりするその空間に想いを馳せたい。そういう時に映画だなぁと思う。だから濱口竜介の『寝ても覚めても』が好き。

編集も好き。それは繋がってないはずのものが繋がっているように見えるから。合ってないはずの二人の視線が交錯してるように見えたり、遠く離れた場所にいる二人が近くにいるように感じたりするために画面の切り返しがあると思ってる。それはもっと言えば、もう二度と会えない誰かに会える(ように見える)からでもある。それは映画にしか出来ないことだと思う。だからルカ・グァダニーノの『君の名前で僕を呼んで』が好き。

そりゃまぁ優れた脚本とかどんでん返しとか俗に言う伏線回収みたいなものが楽しいものだってある。でも自分はそういう欲求は本やドラマで満たせればいい。何も起こらなくたって何かが起こりそうな"予感"があればいい。映画は視覚と聴覚しか満たせないのに、深夜の澄んだ空気感とか煙草の匂いを運んでくれる気もする。この夜に何か起こりそう、なにかすごいことをやれそう、誰かと出逢えるかも知らない、そんな予感がしてくる。だからデヴィッド・ロバート・ミッチェルの『アメリカン・スリープ・オーバー』が好き。

あらゆる要素をまとめると、自分が『ホラー』が好きな理由がよくわかる。優れたホラーにおいて、幽霊に襲われる人は最終的に幽霊に、もっと言えば自分自身のトラウマと向き合うことを選択する。カメラは画面の奥行きに暗闇を作るし、カットが変われば背後に映る何かを捉える。そしてそれはいつだって嫌な"予感"と共に現れる。

 

何が言いたかったんだろう。別に言語化しなくたって自分の好きは自分の中で大事に守ったらいいと思う。それは誰にも傷つけることのできない何よりも大事なものだと思う。でも同時に言語化しようとしなきゃ言語化できない大切なものにも出会えないと思ったりする。好き以外にも、違和感とか寂しさとか怒りみたいなものも同じな気がする。

 

結局また感情的なところに戻ってきてしまったのでそろそろ辞めたい。

2022.02.13(本を作ろうとした、2日目)

カウントとして2日目としているけど、さすがに自分も堅物のジジイじゃないので色々と調べてPagesのフォントと段落をいい感じに調整できるくらいにはなり、何日かかけて過去の自分の文章を綺麗に起こしたりしていた。起こしたと言っても、書き直しはせずに改めて読み直して誤字脱字を整えて並べただけ。自分で改めて読み直しても、よくもまぁこんな自意識が服を着たみたいな人間が毎日こんなことを書いてたなぁと思ってちょっとバッドな気分になったりもした。でもそもそもそういう自意識に向き合わなきゃ本を作ろうなんて思えないよなぁと同時に思ったりもした。

ヨンネ著『はじめて手で作る本』を買って読んで、こういう作り方があるのかぁと思いながら、イメージをしてみたりした。でもイメージしただけでまったく行動には移せなかった。なんとなく今自分が参考にしようと思ってるのはHIBIYA COTTAGE(惜しくも本日をもって閉店。ひたすらに悲しい。)で発行されたZINE、MONO NO AWAREが発行した雑誌『So different steps, and good groove.』です。どちらも手作り感とバラバラ感がイメージ通りで良い。新宿に寄った時に世界堂で紙を見てみたりしたけどA5やB5のサイズ感もよくわかってない自分は、こんなに紙がいっぱいあるのかぁくらいしか思わず、いろいろ触ってみたりしながら結局よくわからんな、という気持ちになってお店を出た。まだあまりにも全てが漠然としすぎている気もするので、そもそも中身をどうしたいのかを整理しなきゃいけない気がする。