anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

あのとき助けてもらった鯵です

東京は江東区木場駅の階段を上り地上に上がるとまだ陽の昇る前のネイビーの空が頭上に広がる。立ち並ぶビルと真新しいタワーマンションがここは埋立地であることをなんとなく感じさせる。車通りも人通りも少ない道路を渡り小道に入ったところで「いま乗船場についた!」と先輩からLINEが入る。乗船場?こんなところに?海も見えないのに?まさか水陸両用のホバーで陸を渡って海に出るのか?なんて考えながら先輩の待つ乗船場なる場所に向かう。辿り着いた先には、両隣にマンション、向かいに公園とコンビニを携えた乗船場という名の古民家がある。いかにも釣りをしそうな格好をした先輩が手を挙げる。自分が到着したのに続いてその後に数人が乗船場とは似ても似つかない古民家の前に集合する。先輩に言われるがままコンクリートの地面の上でフジロックぶりに外の空気を吸うであろう長靴に履き替える。そして恥ずかしいけれど防水防寒が出来る自分の手持ちは水玉のポンチョしかなかったのでそれを羽織ると案の定笑われる。定刻になり古民家の車庫の奥に進むとそこには川の上に浮かぶ船が並んでいる。川縁には変わらずマンションが立ち並んでいてそのちぐはぐ感に全く納得がいかない。くさい煙を浮かべながら船はゔーんと声を上げて動き出す。幅10メートルもない川を船が進む。これから釣りをするということが未だに信じられないままレンタル竿を抱えて阿呆のように座っている。

船は橋の下をくぐりながら汐見運河を越え、次第に東京湾に漕ぎ出す。気付けば周りは豊洲タワーマンションに囲まれる。昇る朝日に照らされながら犬の散歩をする人やランニングをする人、きっとこの人たちいっぱい貯蓄があるんだろうなあと思いながらそれを眺める。そのくらいの余裕がなければ土曜日のこんな朝早くに起きて走ろうなんて思わないもの。高く聳え立つタワーマンションはどの部屋も洗濯物が干してある。あんなに高いところにある部屋に住んでいる人でも洗濯物は外に干すんだなぁとまた感心する。飛沫をあげて船はさらに速度を上げる。ぎーんと声を上げながら羽田空港から飛行機が旅立っていく。3連休の始まり、きっといろんな人が空をまたいでどこかに行くんだろう。それを東京湾の上から見上げる。飛行機を見上げていた頭を下ろすと川崎の工業地帯が黒い煙を吹き上げている。BAD HOPのKawasaki Driftを脳内で流しながらそれを眺めるていると船が停まる。まずはここで釣りをするらしい。狙い目は鯵。鳥籠のような入れ物にコマセ(くっせえ撒き餌)を詰めて海に投げる。釣り針に真っ赤に染まった「たらたらしてんじゃねーよ」みたいなイカをつけて投げる。糸を解放すると重りが海の底に沈んでいく。底につくと糸は自然と止まりリールで数回巻いた位置、即ち海底から2、3メートルの位置で竿を振る。海の底で撒き餌を散らすためだ。そこで当たらなかったらもう2回巻いてもう一度振る。そして待つ。だめなら水面までリールを巻いて回収し、また撒き餌を詰めて投げてそこまで落とす。その繰り返し。数回繰り返していると明らかに糸が引く。64のぬしづりを思い出す。もしくはWindows98に入っていた荒いポリゴンの釣りのゲーム。急いでリールを巻くと水面に魚の影が見える。鯵にしてはそこそこ大きい。30cm以上はある。ある程度巻いたらあとは手で糸を掴んで引き上げる。びちびちと暴れる鯵。たじろぐ自分。なんとか針を外す。やっぱ釣りは釣れたら面白い。それ以外の感想が思い浮かばなかった。いろいろと考える前に釣れてしまった。

朝7時に出発した船は約6時間、13時過ぎごろまで東京湾の上で揺れていた。ひたすらに糸を投げ、巻き、魚を釣り上げる人間。もはや最初に感じた楽しさや感動なんてかけらもなくなっている。ある時間からもう小さなアジしかかからなくなったので上げるのもめんどくさくて放置する始末。人間は酷く傲慢だ。鯵とまともに戦おうとすらしない。大きさで価値を判断してしまっている。虚しくなって気まぐれに引き上げた針の先を見るとやはり小さな鯵が1匹ばたばたと暴れている。押さえて口についた針をゆっくりとって海に帰す。空中を舞う鯵。さよなら。

大収穫の末、無事に埋立地に帰ってくると釣れた魚をお店に持っていき調理してもらう。それを肴にお酒を飲もうというのだ。人間は酷く傲慢だ。でも美味しい。朝4時起きの眠気、6時間にも及ぶ釣り耐久レース、そしてアルコール。しかも日本酒の清らかな飲み口。それはもう泥酔である。うっすらとした記憶の中で闇夜の門前仲町をふらふらと先輩と歩く光景が浮かぶ。

はっ。と目が覚めたとき、自分は駅のベンチに座っていた。ここはどこだ。周りを見渡す。人気の少ないホーム。「大手町」と書いてある看板を見つける。意識はなくてもちゃんと乗り換えはしたらしい。はて、と正気に戻り時計に目をやると既に日付は変わったところ。やばい!と千代田線のホームへと走る。線路には出港を告げる駅員の声が響く。この船に乗らねば自分は取り残されてしまう、さながら餌に食いつく魚のように最終電車になんとか飛び乗った。

そのあと非常に気分が悪くなり、目的の駅の手前で最終電車を降りたのは言うまでもない。もう酒は飲むまいと誓った深夜の駅で、きらきら光りながら海に帰っていった鯵のことを思い出した。