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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2018年ベストムービー30 [1~10]

10. A GHOST STORY

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田舎町の小さな一軒家に住む若い夫婦のCとMは幸せな日々を送っていたが、ある日夫Cが交通事故で突然の死を迎える。妻Mは病院でCの死体を確認し、遺体にシーツを被せ病院を去るが、死んだはずのCは突如シーツを被った状態で起き上がり、そのまま妻が待つ自宅まで戻ってきた。Mは彼の存在には気が付かないが、それでも幽霊となったCは、悲しみに苦しむ妻を見守り続ける。しかしある日、Mは前に進むためある決断をし、残されたCは妻の残した最後の想いを求め、彷徨い始めるーー。

「こんにちは」「やあ」「ここで待ってるんだ」「誰を?」「誰だったっけ」

びっくりするような長回しと時間的飛躍、ロングショットとアップの対比が生者と死者の断絶を語る。
交わされることのない視線は不在を語る。いないことは、いること。

Cの死後、気丈に振る舞うMがコップを洗い配達物に目を通し、その後に食事をしながら涙を落とすシーンが印象的だった。何かを失ったことに気づく瞬間は、ごはんを食べたりとかそんな日常に訪れる。彼女が壁に挟んだメモにはどんな言葉が書いてあったんだろう。そんなことを誰かと話してみたくないですか。おれはこうであってほしいっていうのが一個だけあるのでよかったら聞いてくだせえ。

 

9. きみの鳥はうたえる

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函館郊外の書店で働く「僕」と一緒に暮らす失業中の静雄。「僕」と同じ書店で働く佐知子が加わり、3 人は、夜通し酒を飲み、踊り、笑いあう。だが微妙なバランスのなかで成り立つ彼らの幸福な日々は、いつも終わりの予感と共にあった。

何も言わないことは全て言うことと同じだ。一瞬を切り取ることは全てを描くことと同じだ。一夏の終わりの限られた時間、あるいは人生の中での限られた時間、彼と彼女たち3人のその時間から、彼らの未来や過去に思いを馳せてしまう。それは自分の過去や未来に思いを馳せることとイコールになっていく。この映画にはそういう魔力があると思う。

深夜のコンビニやビリヤード、そしてクラブでのシーンはどれも何かを描くための要素に成り下がったりしていない。何かの象徴みたいにそれを描くと途端にダサくなるけど、劇中ではただ本当にコンビニで買い物をする、ビリヤードを楽しむ、音楽を楽しむ彼らをそれ以上でも以下でもなく描く。だからそこに自分を見つけることができる。彼らとは違うけど自分もあの時のあの感覚を知っていると思わされる。だからだろうか、クラブでむちゃくちゃに踊る佐知子を見てる時に無性に泣きたくなってしまったのは。

顔面のアップとその周囲から聞こえる声。話を聞く側の顔だけを見てると不思議な気分になる。彼からはどう見えてるんだろうとか想像してしまう。これも最初に言ったことと通ずる、断片から全体への想像。

抑えられてきたエモーションが爆発するラストシーン。あの切り返しは失神するくらい美しい。まったく違う映画ではあるけど「寝ても覚めても」との連続性を感じてしまったのは気のせいだろうか。

クラブシーンにも登場するOMSBとHi'Specによる音楽も最高。タイトルから安直にビートルズ使うよりこっちで良い。

個人的にグッときたのは、石橋静河のブラ着ける前に服着ちゃって、「あ、間違えた。」って言って直すとこ。あの生活感よ。あと「夜空はいつでも最高密度の青色だ。」に続いてカラオケシーンが最高。

 

8. シェイプ・オブ・ウォーター

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1962年、アメリカとソビエトの冷戦時代、清掃員として政府の極秘研究所に勤めるイライザ(サリー・ホーキンス)は孤独な生活を送っていた。だが、同僚のゼルダオクタヴィア・スペンサー)と一緒に極秘の実験を見てしまったことで、彼女の生活は一変する。 人間ではない不思議な生き物との言葉を超えた愛。それを支える優しい隣人らの助けを借りてイライザと“彼”の愛はどこへ向かうのか……。

ファーストカットが海に沈んだ部屋というだけで、この物語が社会から除かれ、隠されて、沈められたものたちの物語であることがわかる。その部屋の青緑の濃淡と、浮かび上がる気泡の形の美しさだけで、もううっとりとする。

卵を与えることで愛は生まれ、音楽をかけることで愛は深まる。
彼女にとって雨の音に耳をすますことや、窓に乗る水滴を見つめることは、彼を想うことになっていく。そしてその果てに、声にならない想いは歌になり、響く。いや、もう素晴らしくないですか。

悪役のアイツも最悪なのだけど、キャデラックを買う嬉しそうなところとか、家族と過ごすシーンを描くことで、まともを拗らせ過ぎた、ただの一人の人間であることを忘れさせない。まぁ最悪なんだけどね。

多分デルトロはアイツのアソコを描きたかっただろうし、なんならもう撮ってただろうけどそれはきっとモロ過ぎて映せないしねぇ。ソフトとかにぜひ収録してほしいです。

 

7. バッド・ジーニアス 危険な天才たち

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小学生の頃からずっと成績はオールA、さらに中学時代は首席と天才的な頭脳を持つ女子高生リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)。裕福とは言えない父子家庭で育った彼女は、その明晰な頭脳を見込まれ、晴れて進学校に特待奨学生として転入を果たす。新しい学校で最初に友人となったグレースを、リンはテストの最中に“ある方法”で救った。 その噂を聞きつけたグレースの彼氏・パットは、リンに“ビジネス”をもちかけるのだった。それは、より高度な方法でカンニングを行い、答えと引き換えに代金をもらう――というもの。“リン先生”の元には、瞬く間に学生たちが殺到した。リンが編み出したのは、“ピアノレッスン”方式。指の動きを暗号化して多くの生徒を高得点に導いたリンは、クラスメートから賞賛され、報酬も貯まっていく。しかし、学校が誇るもう一人の天才・生真面目なバンクとの出会いが、波乱の種に。そのビジネスの集大成として、アメリカの大学に留学するため世界各国で行われる大学統一入試「STIC」を舞台に、最後の、最大のトリックを仕掛けようとするリンたちは、バンクを仲間に引き入れようとするが…。

リンとグレースの出会いのシーンで2人の足を捉えたカットがある。それをフィードバックするかのように最初のカンニングは靴の受け渡しによって行われる。この映画においては、何かを渡すことにより関係が構築される。冒頭の靴に始まり、シャツ、携帯電話、鉛筆、参考書と形を変えて。それらの受け渡しが作る関係は、友情や信頼やまたは恋にも見えるが、そのどれでもない。ゆるやかな「共犯関係」が孤独な彼彼女等を繋げていく。しかしそれは対等ではなくいつしか"搾取する/される"関係に変容する。いや、もともとそうだったのかもしれない。

少し捉えにくかったのが、中盤のある展開からリンが一度辞めたカンニングビジネスを再開させる動機だったのだけど。きっとそれは「一生搾取される側でいてたまるか」という思いからなのではないか。へーこら身を削って賄賂を渡して、奨学金に縋って、そんな思いこれからずっとしてたまるか。それなら自分のこの才能でふんだくってやるよ。っていう思いなのではないだろうか。

シドニーでの試験の前夜に歩道橋の上で話すリンとバンクが話す下には、信号の進めと止まれを示す電光掲示板の○と×が光る。校長とリン親子、リンとバンク、取調室での象徴的な会話シーンは狭く閉ざされた空間で、さらには窓越しから捉えられる。ラストのあの部屋もそう。リンやバンクの反撃も結局は、閉ざされた世界での反撃にすぎない。搾取の関係は決して反転しない。

人生におけるやるか/やらないかの選択肢はいつだって目の前に漠然とある。ドアノブに手はかかっていてもそれを回さなければ、それはただの壁。鍵はかかっていない。そこから一歩踏み出すとき、世界が、いや自分が変わる。的なラストシーンが最高すぎたので2018年度ベストラストシーン大賞をあげます。

 

6. ちはやふる -結び-

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待望の新入部員獲得に向けて奮闘する千早、名人を目指す新に立ちはだかる絶対的な壁、そして突然かるた部を辞めてしまった太一。かるたが繋いだ3人の幼なじみの運命が、今、それぞれの未来に向かって動き出す―。果たして、全国大会の行方は?

観ながら、あぁこの映画は間違いない。と確信した瞬間がある。千早が部室の畳の上に横たわるシーン。使用禁止の貼り紙がされた扇風機、スケジュールの書かれた黒板、写真、畳のへこんだ跡が1ショットずつ連なっていく。そこに言葉はなくとも、きっと観ている人たちは千早たちが積み上げてきた時間や、そこに今はいない太一を想うだろう。映っているものから、そこにはないものを想像できることこそ、映画の強みの一つだと思う。いないことは、いることなんだ。

もう「上の句」「下の句」と見た人であればこの映画がただのマンガ原作映画の一つでないことは十分わかっていると思うのだけど、この「結び」は「一つの青春の終わり」とか、もっと根底にある「人生を自らで選ぶこと」みたいなテーマにまで踏み込んでいく。そして、徹頭徹尾フォーカスされるのは「持たざるもの」である太一だった。全人生を懸けたってこの先には繋がらないとしても、今しか懸けられないものがある。スラムダンク桜木花道における「俺の栄光時代は今なんだよ」的な。
後から思い返してみると、家庭や親が一切描かれなかったのもバランスとして正しいと思う。

あーもう言いたいことがたくさんある。
新キャラも軒並み良かった。一人残らず好きになってしまう。あと、撮影に関しても数少ない夜のシーンの色使いとか光の反射のさせ方とかハッとさせられる。千早と原田先生がラーメンを食べてるシーンと、周防名人を太一が追いかけるところ。

重箱の隅突くような不満を一つだけ言うなら、あまりに詩暢ちゃんにコメディ要素を担わせすぎなんじゃないかなぁ。もうすこし重みがあったら解説のところとか見え方が変わった気もする。

ちはやふるという物語はこれで一つの形として「結び」となるわけだけど、同時に物語の中では次の世代の誰かと、そして現実では見ている僕らと、新しい「結び」となって千年先にも繋がっていくのでしょうね。

 

5. 万引き家族

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高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。足りない生活費は、万引きで稼いでいた。社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。 冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治が家に連れ帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく──。

思ってたよりもずっとずっとドライ。感動や涙を煽るような演出やシーンもほぼほぼ0。質感は「誰も知らない」が一番近い気がした。後半のある展開を迎えるまで、明らかに家族を俯瞰するショットが多用される。彼らから見る世界はほとんど映らない。(唯一あるとしたら海のシーンの樹木希林視点。あそこが転換点な気がする)
海街diary」のあの忘れがたい花火のシーンを超える花火のシーンがまさか訪れるとは。

話を戻すと、題にもある通り「万引き」をする彼らを僕らは「見つめる」ことしかできない。彼らが見つめる世界は見ることができない。でも見つめていく過程で、時々覗かせる闇はあれども彼らを「家族」であると認めざるを得ないというか、問題はあるかもしれないけれど心の大半はこの家族が幸せであってほしいと祈ってしまっている。
その臨界点を迎えるのが先に述べた海のシーンなのだけど、そこから折り返した終盤30分程。ある人物たち(奇しくもきみはいい子コンビ)の視線が彼らを裁こうとする。そう。いわゆる世間一般のものさしで。これまで彼らの幸せを願いながらみてきた自分は、世間一般の意見に怒りを覚える。つい数時間前までそっち側にいたはずなのに。普通の家族って、普通の母親って、普通の生き方って。このシーンの安藤サクラの目、手の動き、声、すべてが言語を超えた何かというか。「なんだろ。なんだろう。何なんでしょうね。」

この映画は何も断罪しない。ただ、最後に振り返りながらもバスに乗ったのは彼が自分で選びとった道なのだ。それを正しいことと言わずに何を正しいと言うのだろう。ラストカット、彼女の見つめる先の世界にいる僕らは何ができるか。それは映画館を出てから考えること。

 

4. 君の名前で僕を呼んで

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1983年夏、北イタリアの避暑地で家族と夏を過ごす17歳のエリオは、大学教授の父が招いた24歳の大学院生オリヴァーと出会う。一緒に自転車で街を散策したり、泳いだり、午後を読書や音楽を聴いたりして過ごすうちに、エリオのオリヴァーへの気持ちは、やがて初めて知る恋へと変わっていく。 眩しすぎる太陽の中で、激しく恋に落ちるふたり、しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づいてくる。

ようやく見れた。思ってたよりもずっとずっと良かった。というか、あぁこういう映画だったんだ…と思ってもないところに着地させられて、とても不意を突かれた。
文としてまとまらないので、以下好きだった項目ごとに。


・交わされる視線
「好きな人はいるから見るんじゃなくて、見たらいる。」なんて某台詞を思い出した。何かに誘われるように、夏の日差しが差し込む窓からエリオが庭を見下ろすと、そこにはオリヴァーがいる。平行線を歩く二人。交わらないけれど、確かな想いを伴った視線。後半のあるポイントでその視線がオリヴァーからエリオに向けられるものにシフトするとき、とても満たされるのはなぜだろう。


・恋とアート
映画のファーストカットから全体を通して頻出するギリシャ彫刻。もしくは若い騎士の王女に向けられた報われない恋心を綴った詩。もしくはエリオが奏でる音楽。あらゆる芸術が映画内にあふれて彼や彼女たちに寄り添う。遠い昔、かつての誰かの確かなある想いによって作り上げられた何がが時を超えて誰かに届く。海の底から。ラジオから。
2018年の間違いない傑作、小袋成彬「分離派の夏」を再生して1曲目にて語られるリーディングを思い出した。
芸術は無くても生きていける。関わらなくたっていい。でも、それでも何か生みださなければ人生の中で前に進めないことがある。
後述するシーンで父から子へ伝えられる言葉のように、上書きされないエリオの想いはきっと何にも代えられないアートになるはずだし、この物語こそ原作者や監督の過去の想いの結晶かもしれない。自分は芸術で何かを表現することなんて出来ないけれど、映画にしろ音楽にしろ、圧倒的なものに触れることで満たされない想いが昇華された気分になるのかもしれない。

 

・父と子
自分が一番不意をつかれたのはこの部分。終盤、対面ではなく横並びで交わされる父と子の会話こそ間違いなくこの映画の核だと思った。多くの映画にありそうでなかったもの。ここにも、満たされなかった想いが時を超えて何かに届くことが描かれる。なんと美しいんだろう。薪のくべられた暖炉の火の暖かさ。何かの映画のレビューでも書いたのだけど、決して結ばれはしなくても消えることもない、道の先で迷ったときに背中を押してくれるような、そんな想いを恋と呼んでもいいと自分は思う。

 

3. スリー・ビルボード

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最愛の娘が殺されて既に数ヶ月が経過したにもかかわらず、犯人が逮捕される気配がないことに憤るミルドレッドは、無能な警察に抗議するために町はずれに3枚の巨大な広告板を設置する。それを不快に思う警察とミルドレッドの間の諍いが、事態を予想外の方向に向かわせる。

観終わってから、もう呆然としてしまって、いや、こんな映画を普通に観てしまっていいんですか。みたいな。あらゆる映画の面白さが、この映画に収束していっているような、そんな気がした。

善と悪、表と裏の混在に関しては、まぁいろんな人が話しているから置いておくとしましょう。劇中でなによりも心が動くのが、「誰かのする何気ない所作」に尽きると思うのです。もちろんそれは当人には何気ないことかもしれないけれど、受ける側からしたらそれ一つですべてを肯定されるような。頭を撫でるでもなく触ること、ストローの向きを変える、梯子を支える、誰かに「ありがとう」と言う。「神は細部に宿る」とはこういうことなのかもしれない。

 

2. 彼の見つめる先に

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目の見えない少年レオは、ちょっと過保護な両親と、優しいおばあちゃん、いつもそばにいてくれる幼なじみのジョヴァンナに囲まれて、はじめてのキスと留学を夢見るごく普通の高校生。でも何にでも心配ばかりしてくる両親が最近ちょっと鬱陶しい。ある日、クラスに転校生のガブリエルがやってきた。レオとジョヴァンナは、目が見えないことをからかったりしない彼と自然に親しくなっていく。レオはガブリエルと一緒に過ごす時間の中で、映画館に行ったり自転車に乗ってみたり、今まで経験したことのない新しい世界を知っていくのだが、やがてレオとガブリエル、ジョヴァンナ、それぞれの気持ちに変化がやってきて…。

2018年に語るべきすべてが詰まった映画だと思った。(製作はもう少し前だけど)2010年代の総決算と言ってもいいくらい、あぁここまできたかぁ。と思わされた。語弊を恐れず言うならば、障害も同性愛も、もうそこにクローズアップすることってそんなに重要じゃないと思う。誰かとキスをしたいと思うのも、親の目を離れた何処かに行きたいと思うのも、あたりまえの感情。そう、あたりまえ。もうそこを同列に語ることはあたりまえなんだよ。あたりまえの青春と恋がある。そんな映画超最高じゃないですか。巧さとかそういうのを超えた意義があると思う。

そして、本当にこれ以上ない希望に満ちたラストシーンが待っている。彼らの背中に、いつまでもこの景色が続くように、と祈りながら見つめていた。

でも、もしかしたら、わからないけど、そう遠くない日にレオとガブリエルにも別れの日は訪れるかもしれない。それでもレオにとってガブリエルがくれた日々は、何よりも確かな杖となってこの先のレオを支えていくのだろうな。この先の日々の中で、There's too much loveを聞いた時に、レオは彼と手を繋いだことを、彼と踊ったことを、彼がくれたキスを思い出しながら生きていくんだと思ったら、たまらくなってエンドロールの途中で劇場を後にしてしまった。
でも、誰にも等しく恋ってそういうことなのだと思う。もうダメかもしれないと思ったときに、力をくれるようなものなのだ思う。それはたとえ、叶わなかったものだとしても、そうなのだと自分は思う。

映画を巧さとかでは語りたくないのだけども、画作りがとても巧いのも事実。ガブリエルが教室に入ってきた時、カメラはレオの耳にフォーカスする。レオが最初にガブリエルに意識を向けるのは耳なのだ。レオがベッドの中で一人ガブリエルを想い、恋心に気づくのはガブリエルのパーカーの匂いを感じたとき。人を恋に落としていくのは、もしかしたら視覚以外の感覚なのかもしれない。映画全体を通して描かれる「手」もとても象徴的。壁を伝う手や、リズムを刻む手、消しゴムを渡す手。肌の触れ合いから伝わる感情がそこには確かにある。カメラワークも巧い。帰り道や部屋に入るシーンの同画角の反復によって、そこにいる人の変化、感情の変化が浮かび上がる。または、レオと接する人物は、身体の全体が捉えられずにアップでどこか一部のみが映るシーンが多かった気がする。

は〜〜。あとは映画館のシーンが最高だったなぁ。あんなロマンティックなシーンないよ。本当に隅々まで最高で何度でも観たい。

 

1. 寝ても覚めても

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東京。亮平は、コーヒーを届けに会社に来た朝子と出会う。真っ直ぐに想いを伝える亮平に、戸惑いながらも惹かれていく朝子。ふたりは仲を深めていくが、朝子には亮平には告げられずにいる秘密があった。亮平は、かつて朝子が運命的な恋に落ちた恋人・麦に顔がそっくりだったのだ――。

 

本当に、5点を付けても1点を付けても良い映画だと思う。もちろん大傑作だとも思う。
映画の中が、わかるけどわからないとその逆のわからないけどわかるとか、むかつくけど憎めないとか、相反する感情が一個になって満たされる。「汚い、でも綺麗」と劇中でも言われるように。愛は衝動や矛盾を帯びた行動原理なんかじゃ説明できない圧倒的なものであるということを改めて知らされる。
その一貫性のない物語を貫く「水」の存在。日本酒やコーヒー、仙台の海、介護器具の水、そして雨、川。どこかで死の匂いを孕みつつ絶えず流れる。
或いは、手と足のクローズアップ。顔に触れ合う手、握り合う手、何かを渡す手、足を揉む手。特に洗剤のついたままの手で抱き合うシーンなんてもうため息がもれるほど美しい。
或いは視線のやりとり。特に見る/見られるが不意に逆転するところなんてもう映画的すぎる。写真から見つめる視線、非常階段の上と下、混ざり合う人混みの中、言葉のないベッドの上から、そしてラストシーン。最後にボールはこちらに投げられる。

終盤、雨の中で土手を走る二人を、雲の隙間から差す陽の光が追いかけていくシーンは、映画史に残ると言っていいくらい美しい。よくもまぁあんなシーンを撮ってくれた。キャストも本当に全員良い。東出くんは間違いなくこれまででベスト。サイコパスな面とぐうの音も出ない良いやつの両面が観れるし、唐田えりかの何言ってんだこいつ感も超最高。瀬戸康史、山口リオ、伊藤沙莉も超最高。エンディングのRiverに関しては、超良い曲で好きだし、ラストシーンからイントロが流れるまでのタイミングも間違いないのだけど、映画を見終わった後に歌詞を聞くと、映画では言葉にせずに表現されていたことが最後に言葉にされてしまう感があって勿体無く感じてしまった。感情の答え合わせをされてる感じ。もっとモヤモヤしたかった。「二人の愛は流れる川のようだ/途切れることないけど掴めない/色んな愛を集めた色のようだ/喜びも悲しみも映してる」なんて、悔しいくらいに言い得てる。