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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

2017年ベストムービー30 [1-10]

10. スウィート17モンスター

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まだ恋より友情が大切な17歳。キスも未経験、妄想だけが空まわり。 ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は17歳の高校生。キスさえ未経験の、イケてない毎日。恋に恋する妄想だけがいつも空まわりして、教師のブルーナー(ウディ・ハレルソン)や情緒不安定な母親(キーラ・セジウィック)を困らせてばかり。たった一人の親友クリスタ(ヘイリー・ル・リチャードソン)だけが自分のすべてだと思っていたのに、何をしてもかなわないとコンプレックスを抱いていた人気者の兄ダリアン(ブレイク・ジェンナー)とクリスタが恋に落ちてしまう。疎外感から世界にたった一人取り残されたような気持ちになったネイディーンは、とんでもない行動に出るのだが…。

あぁ、なんと素晴らしい映画だろう。こういう映画には心底弱い。そうだよなぁ。自分ってなんて醜いんだろう。とかなんでみんなと上手くやれないんだろう。周りはあんなに上手くやってるのに。って捻くれたりする時って自分にもあった。でもそれって自分を蔑んでるようでいて、結局自分を中心にしか考えてないだけなんだよね。ほんとは自己顕示欲がものすごくあって、誰かに認めて欲しくて、でもなんて言ってもらえたら満足するか、自分でもわからない。何て言っていいかもわからない。それでも、世界は他者の総和で、自分が関わってるのなんて、ほんーの少し。誰かがあって世界がある、そんな当たり前のことに気づけないのは17歳の少女だけじゃなくて、誰だってある。きっとそんな目線を自然に持ってたのがネイディーンの父だったんだろう。娘と妻を両方同時にたしなめられる、しかも二人とそれぞれ同じ目線で。その存在を失った家族たちは、迷い、狼狽え、間違っていく。きっと、ダリアンはダリアンなりに父の代わりになろうとしたんじゃないだろうか。彼自身が思い描いていた将来もあっただろう。それを諦めてでも。でも誰かの代わりになることなんてやっぱり出来なくて、ダリアンはダリアンなりの道を選んだんだろうな。ネイディーンのファッションがラストに向けてどうなっていくのかに注目するとそれも良くて、ほんと好き!

 

 

9. タレンタイム〜優しい歌

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ある高校で、音楽コンクール“タレンタイム”(マレーシア英語で学生の芸能コンテストのこと)が開催される。ピアノの上手な女子学生ムルーは、耳の聞こえないマヘシュと恋に落ちる。二胡を演奏する優等生カーホウは、成績優秀で歌もギターも上手な転入生ハフィズに成績トップの座を奪われ、わだかまりを感じている。マヘシュの叔父に起きる悲劇、ムルーとの交際に強く反対するマヘシュの母、闘病を続けるハフィズの母……。マレー系、インド系、中国系…民族や宗教の違いによる葛藤も抱えながら、彼らはいよいよコンクール当日を迎える――。

国境、異文化、宗教をはじめ、愛と憎しみ、生と死、過去と未来がシームレスに行き来する。それは劇中における、きこえる/きこえないもしくは、見える/見えないも同様であらゆるものが溶け合い、混ざり合う。ラストにおけるギターと二胡の合奏とその後の彼らの行動こそ、その最たるものであの瞬間に何かが満たされるような感覚でいっぱいになった。しかし、その次に写されるカットはもう誰もいなくなった部屋。なんだこの強烈な寂しさは。ムルーたち家族がいなくなった家でメイリンが奏でるピアノの音も同じ。どうしようもない孤独や、不在は裏を返せば、誰かといたこと、何かがそこに在ったことと同じなんじゃないだろうか。これは飛躍しすぎかもしれないけど、"なにもない"ということは"隔てるものもない"ということと同じかもしれない。

 

 

8. 昼顔

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お互いに結婚していながら、惹かれあい愛し合うようになった笹本紗和と北野裕一郎。その一線を越えた関係はいつしか明るみになり、ついに二人は別れざるを得なくなってしまった。そして、紗和は夫とも別れ一人になった。あれから3年―紗和は海辺の町で慎ましく暮らしていた。オーナーの杉崎尚人が営むレストランでの見習いと狭いアパートの往復が日課で、北野の夢を見る事さえ既に無くなっていた。海岸沿いの小さな町には、彼女の過去を知る者は誰もいない。一方、大学の非常勤講師となっていた北野は蛍に関する講演を、ある街で行う事に。講演中、客席に目を向けたとき、彼は言葉を失ってしまう。そこには、紗和の姿があった。「神様は、私を試していたのでしょうか」運命のいたずらか、再びめぐり会う二人。あの時に交わした愛を忘れられず、どちらからともなく逢瀬を重ねていく。清流ながれる蛍の住処が“約束の場所”。そんな中、二人の前に現れたのは、北野の妻・乃里子だった……

合意書の読み上げと同時にふたりの「手」がクローズアップされ、海→風→蛍と流れるように紡がれた先で2人が出会う。会話を許されないという約束により自然と台詞は抑制され、ふたりの愛は無言の手の絡み合いでもって表現される。
それでも加速する二人の愛を包丁の音、花火の音、クラクションの音と、様々な音が妨げていく。夜空に向かって「届きそう」と手を伸ばす様はまさに太陽に向かったイカロスで、ともすれば待っている結末もその通り。ただ「落下」と共に描かれるのは花火の「上昇」で、対を成すふたつが奇しくも共鳴する。映画然とした言葉のない巧みな演出も素晴らしかったのだけど、やはり惹かれるのは"それでも生を選ぶ"、"有無を言わさず続いていく"という業のような生の肯定を描いたラストだった。上戸彩の「上昇」というにはあまりに痛々しすぎる「這い上がり」と、届けられなかった想いがどこか別の場所で別の想いとなって確かに届いていくその連続性には不覚にも胸がざわざわしてしまった。ドラマは見ていなかったけど全く問題ないです。ただのドラマ映画にあらず。快&怪作です。

 

 

7. IT / “それ”が見えたら、終わり。

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“それ”は、ある日突然現れる。 一見、平和で静かな田舎町を突如、恐怖が覆い尽くす。相次ぐ児童失踪事件。内気な少年ビルの弟も、ある大雨の日に外出し、通りにおびただしい血痕を残して消息を絶った。悲しみに暮れ、自分を責めるビルの前に、突如“それ”は現れる。 “それ”を目撃して以来、恐怖にとり憑かれるビル。しかし、得体の知れない恐怖を抱えることになったのは、彼だけではなかった。不良少年たちにイジメの標的にされている子どもたちも“それ”に遭遇していた。自分の部屋、地下室、バスルーム、学校、図書館、そして町の中……何かに恐怖を感じる度に“それ”は、どこへでも姿を現す。ビルとその秘密を共有することになった仲間たちは“それ”に立ち向かうことを決意するのだが…。 真相に迫るビルたちを、さらに大きな恐怖が飲み込もうとしていた―。

悲しみの川は繋がっている。誰かに起こることは、誰にでも起きること。何処かの誰かが殺された、行方不明になった。そんなふうに遠くから流れついた水は町の至るところに蔓延る。例えば、排水溝。例えば、洗面台。例えば井戸の中。少しずつ、少しずつ汚れた水が川から流れこむ。でも、汚れを流してしまえば終わりなのだろうか。ザーッと蛇口をひねるように、忘れてしまっていいのだろうか。彼らはそんなことにとことん抗い続ける。1人の人間がいなくなった、それをただそれだけのことで終わらせたくないのだ。それはきっと彼らも、もしかしたら自分だってそうなるかもしれないと思ってしまう瞬間があるからなのではないだろうか。図書館の隅で、ガレージで、バスルームで、羊小屋で。一人で振り払えない恐怖や孤独も、みんなとなら。Welcome to the loser club!!!!!!!!!!! あの年の夏、アイツらと手を繋いで川を渡った。そのあと「じゃあな」って言って別れた。ただ、それだけの日を、いつか彼らは思い出すのだろうか。

 

 

6. 人生フルーツ

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かつて日本住宅公団のエースだった修一さんは、阿佐ヶ谷住宅多摩平団地などの都市計画に携わってきた。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画。しかし、時代はそれを許さなかった。GDP世界第2位(68年)などに象徴される高度経済成長期。結局、完成したニュータウンは理想とは程遠い無機質な大規模団地だった。修一さんは、それまでの仕事から次第に距離を置くようになる。そして1975年、自ら手掛けたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめた。それは修一さんにとって、ごく自然なライフワークとして継続されることになる。あれから50年、ふたりはコツコツ、ゆっくりと時をためてきた。そして、90歳の修一さんに新たな仕事の依頼がやってくる。

"ほのぼの"とか"スローライフ"という言葉で片付けてしまうのは簡単だ。何も考えないことがほのぼのじゃない。一本通したその人の芯のようなものがなければ、それがこつこつ積み重ね続けられなければ、ほのぼのなんて生きられない。修一さんは、高蔵寺ニュータウンの建築で結果的に体制に敗北してしまったように世間には見られているかもしれない。でも彼の胸の内にはずっと変わらず燃えるものがあって、雑木林やどんぐりを植えた山には彼のささやかな人生の勝利がある。未来に繋がっている。枯葉を土に撒き、良い土を育てて、作物を育てる。そんな運動が映画になる。英子さんは終盤にあるものを捨てる選択をする訳だけど、それも生きるための彼女の選択だ。「捨てられる」っていうのは何よりも強いことだ。

 

 

5. ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.2

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“スター・ロード”ことピーター・クイルをリーダーに、凶暴なアライグマのロケット、マッチョな破壊王ドラックス、ツンデレ暗殺者ガモーラなど、たまたま出会ったノリで結成された宇宙の“はみ出し者”チーム、<ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー>。小遣い稼ぎに請けた仕事をきっかけに、強大な力を持つ“黄金の惑星”の指導者アイーシャ率いる無敵艦隊から総攻撃を受け、彼らの宇宙船ミラノ号は壊滅寸前に…。間一髪、ガーディアンズを救ったのは“ピーターの父親”と名乗る謎の男エゴと、触れただけで相手の感情が分かる能力を持つマンティスだった。仲間からの忠告にも関わらずエゴに魅了されていくピーターの姿を見て、次第にチームの絆に亀裂が…。そこへ“ピーター育ての親”ヨンドゥが率いる宇宙海賊の襲撃や、さらに銀河全体を脅かす恐るべき陰謀が交錯していく。はたして、ピーターの出生に隠された衝撃の真実とは? そして、彼らは絆を取り戻し、銀河を救うことが出来るのか? その運命の鍵を握るのは、チーム一小さくてキュートな、ガーディアンズの最終兵“木”グルートだった…。

いや、こう来るか。なんと優しい映画なんだろう。世間から弾かれたやつらがヒーローになる前作はマーベルの映画としてもちろん素晴らしかったけれど、まさか続編で描かれるのは(擬似)家族の形成とは。一体何度彼らは他人を信じては裏切られて、拒まれて、嘲笑されてきたろう。その上で自ら孤独を選んできたんだろうか。血の繋がりこそがすべてと言う人もいるだろう。でもここには血を超えた何かがある。同じ釜の飯を食ったというか、同じバズーカを撃ったというか。いや、書けば書くほど、ドラマ「カルテット」と共鳴するものを感じる。前作然り、オープニングからド級の画と音楽の乱打。ラストは反則級の曲でばっちり泣かされました。これ、親子で見たら最高だろうなぁ。

 

 

4. 夜空はいつでも最高密度の青色だ

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渋谷、新宿。二人は出会う。優しくてぶっきらぼうな、最高密度の恋愛映画、誕生。 看護師として病院に勤務する傍ら、夜はガールズバーで働き、言葉にできない不安や孤独を抱えながらも、誰かに甘えることもせず日々をやり過ごす美香(石橋静河)と、工事現場で日雇いの仕事をしながら死の気配を常に感じ、どこかに希望を見出そうとひたむきに生きる青年、慎二(池松壮亮)が排他的な東京で生きづらさを抱えながら出会い、そして、恋がはじまるーー。

目に映るもの、映らないもの。東京オリンピックの建設工事、スマホの画面、空を飛ぶ飛行船、捨て犬、青い月、遠い何処かの国の地震、戦争、誰かの死、愛。この映画がやろうとしていることは、世界の日陰に陽を照らすことではないような気がする。「未来はどうなるかわからない」という慎二の言葉は裏を返せば「とんでもない奇跡が待っているかもしれない」ということと一緒だし、東京に溢れる1000万人や居酒屋の喧騒の中から恋が生まれるかもしれない。つまりは目に映るものの中からしか目に見えないものは見つからないんじゃないだろうか。感想とは別に思ったことだけど、こういう雰囲気からして、好きな人は好きみたいなインディー映画然とした映画になってもおかしくないのに恋愛映画のど真ん中をまっすぐ描くのは流石だ。しかも現代の若者の息苦しさも押し付けがましくない。

 

 

3. マンチェスター・バイ・ザ・シー

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ボストン郊外で便利屋として生計を立てている主人公が、兄の死をきっかけに故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーへと戻り、16歳の甥の面倒を見ながら過去の悲劇と向き合っていく―。

例えば、船のエンジン、銃、橋、窓際の花、鳥、冷蔵庫、家具、写真立て、墓標、ボール、波。例えば、誰かと誰かが向かい合うこと、誰かと誰かが隣り合うこと。それぞれが、それぞれ自体の意味を超えて何かを訴えかけてくる。仮にそれが意図したものであろうとなかろうと、映像的強度というのはそういうことだろう。終ぞ正面からは捉えられなかったリーの部屋にある3つの写真立てを、パトリックが見つけたその瞬間になぜか涙が溢れてしまった。ディスコミュニケーションの果てに、誰かが誰かの心の柔らかい部分(もしくは凝り固まった部分)に触れるその瞬間を見てしまった。

 

 

2. LOGAN ローガン

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ミュータントがほぼ絶滅し荒廃した近未来。ローガンは治癒能力を失いつつあった。そんなローガンに年老いたチャールズ・エグゼビアが託した最後のミッションは、絶滅の危機にあるミュータントの唯一の希望となるローラという謎めいた少女を守ること。強大な武装組織の襲撃を逃れ、車で荒野を旅する3人の行く手には、想像を絶する運命が待ち受けていた。

以下記事参照 

 

 

1. KUBO/クボ 二本の弦の秘密

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三味線の音色で折り紙に命を与え、意のままに操るという不思議な力を持つ少年・クボ。幼い頃、闇の魔力を持つ祖父に狙われ、助けようとした父親は命を落とした。その時片目を奪われたクボは、最果ての地まで逃れ母と暮らしていたが、更なる闇の刺客によって母さえも失くしてしまう。 追手である闇の魔力から逃れながら、父母の仇を討つ準備を進めるクボは、道中出会った面倒見の良いサルと、ノリは軽いが弓の名手のクワガタという仲間を得る。やがて、自身が執拗に狙われる理由が、最愛の母がかつて犯した悲しい罪にあることを知る―。

物語は終わる。人は死ぬ。そう。確かに。でも誰かの記憶の中に宿る物語は終わらない。あの人はこんなことをしていた。これが好きだった。こんなふうに笑った。そんな思い出は時に強く背中を押してくれる。紡がれた物語は脈々と受け継がれ、振動し、また別の誰かに伝わる。

この映画を見て、もう二度と会えない人を思い出したり、大切な人が死んでしまう意味を考えたり、それこそが映画の持つ、物語の持つ最大の力なのだということをまざまざと見せつけられた。

「終わりがあるからこそ、人の生は美しいんだ」と、だから物語を作ることには意味があるのだ、と声高らかに宣言される。そんな映画をストップモーションアニメで作り上げたと言うことが、また素晴らしい。命のない人形と瞬間の連なりによって物語に命を吹き込んでしまうなんて。