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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

『往復書簡 初恋と不倫』朗読劇 第二夜"不帰の初恋、海老名SA"について

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教室の喧騒が聞こえる。校庭で部活をする野球部の声、バットの音、教室のドアが開く音、閉じる音、「バイバーイ」の声。喧騒が徐々に大きくなり、止む。

舞台に明かりが灯るとそこには玉埜広志と三崎明希が立っている。ここではないどこかを見つめているような。ああそうか、この二人は教室の喧騒の中にはいない。

玉埜です。返事くださいと書いてあったので返事書きます。

迷惑です。僕と君はただ同じクラスだというだけです。話したこともないし、君のことを何にも知りません。君も僕のことを何にも知りません。

君は傲慢な人なのだと思います。 

自分が孤独であることを受け入れている、そんな諦めと意地と、少しの哀しさ。そして透明人間である自分を見つけられた驚きの入り混じった太賀の声。

三崎です。お返事ありがとう。

さて、わたしは浜松のお婆ちゃんと一緒に住んでいたことがあって、その頃よく言われました。明希はお爺ちゃんに似てる。頑固で偏屈だ。頑固で偏屈なのです。

この松岡茉優の一言目の発声が絶妙で、中学生らしい甘くて無邪気で、この不思議なやり取りを確かに楽しんでいる声なのだけど、どこか空虚や(後に繋がる)大きな悲しみを抱いているような声だった。

 

学校では教師に名前を呼ばれず、誰とも話すことのない、透明人間として扱われていた玉埜広志と、恐らくネグレクトにより孤独を余儀なくされた三崎明希の手紙によるファーストコンタクトである。

そんなプロットを見ると、どんな暗くて重い話なんだと思われるだろうか。それが不思議なことに物語は会話のみで時に喜劇として転がっている。現に会場でははっきりと笑いが起きていたのだ。以下、一際笑いが大きかった箇所。

「あと、ラジオ体操第一の好きな箇所も教えてください。」

「ラジオ体操第一の好きな箇所は、腕を上下に伸ばすのところです。肩に手を乗せるところが好きです。」

 

「だから、キュウリにハチミツをかけたらメロンの味がするというのを試そうと思って、コンビニに行きました。そしたらキュウリもハチミツも売ってなくて、メロンは売ってました。メロンを買いそうになりました。レジの前で、それ違う俺違うって気付いて、手ぶらで出ました。」

 

「香水は上司に勧められるまま買ってしまいました。ディー、アイ、オー、アール、と買いてあります。」*1

特に最後の台詞は書籍にはなかった部分で良かった。

 

中学一年生で出会った彼らが、再び言葉を交わし始めるのは十余年後。この経過をちょっとした発声の変化で表すのは当たり前かもしれないが流石としか言いようがなかった。社会に出た二人の、いわゆる普通という名の多数の中にあるけれど、どこか居心地の悪いような、そんな声。

 

ああ、書き上げていたらキリがない。特別、身を震わされたのはやはり終盤における二人のやり取りである。高速バス事故の加害者、被害者、殺人と加速してく物語の終着点は題にある通り"初恋"なのだ。

玉埜広志

ああしとけば良かった。こうしとけば良かった。そんなことを思いながら想像します。ありえたかもしれない僕と君の続き。

観覧車に乗って家はあっちの方だとか言って指さしてる。就職が決まって似合わないスーツを着た僕を君が笑う。会社の帰りに待ち合わせて、同級生の誰かが結婚したとか報告しあう。そんな明日があったかもしれない。

きっと絶望って、ありえたかもしれない希望のことを言うのだと思います。

三崎さんの手を握ることは出来た。だけど大切なことは、握ることじゃなく、放さずにいることだった。*2

三崎さんのことが好きでした。それじゃ。

 

三崎明希

言葉を尽くせば尽くすほど、本当のことから遠ざかるのはいつものことです。でも、書きます。それは仮に名前を付けるとすると、初恋ということなのかもしれません。

 

これから先ずっと、こんなに好きになる人は現れないと理解していたからです。これから先、どんな出会いがあっても、どんな別れがあっても、どんなに長生きしてもこんなことはもう一生ないってわかったからです。

そのくらい玉埜君が好きでした。その気持ちは今も減っていません。増えてもいません。変わらず同じだけあります。これからのことも、これまでのことも全部その中に存在してる。そんな私の初恋です。

 

で、ここからが後日談です。わたしの初恋は、わたしの日常になりました。

例えば長めで急な階段を降りる時。例えば切手なんかを真っ直ぐ貼らなきゃいけない時。例えば夜寝る前、最後の灯りを消す時。日常の中のそんな時、玉埜くんと繋いだ手を感じているのです。あの日バスに乗った時も君の手を感じていました。

支えのようにして。お守りのようにして。君がいなくても、日常の中でいつも君が好きでした。

この部分の、二人の声の震えとか、鼻をすする音とか、俯きかたとか、肩の震えとか、もう役柄を超えた何かが振動していた。その振動は客席に伝搬して渦を巻くような、包み込むような空気を生んで、とにかく一つの空気になっていた。

 

劇中に、こんな台詞がある。

ありえたかもしれない悲劇は形にならなくても、奥深くに残り続けるんだと思います。悲しみはいつか川になって、川はどれも繋がっていて、流れていって、流れ込んでいく。悲しみの川は、より深い悲しみの海に流れ込む。

川で溺れた女の子も、金槌を持った少年も、高速バスの運転手も、ひとつながりの川のうえ。耐えきれない悲しみはそこを流れていつか自分の元にも流れ込んでしまうかもしれない。そうかもしれない。でも、それは悲しみだけじゃないはずだ。美味しい、とか楽しい、とか好き、とかそういう想いも繋がっていくはずでしょ。役を超えて太賀と松岡茉優という人の声を、震えを、想いを聞いたのだから。

その証拠に、物語のラストは時間も場所も超えた想いの繋がりに帰ってくる。"不帰"というタイトルの憎さよ。 その最後の一言の、心の底の底から出るような声が耳から離れない。

玉埜です。返事くださいと書いてあったので返事書きます。

お手紙ありがとう。嬉しかった。

 

 

 

 

*1:広告代理店に勤めていてそれはないだろうよ!玉埜くん!

*2:終演後、舞台を降りる松岡茉優の手をそっと握っていた太賀。涙溢れました。