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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

無限の海は広く深く - 『カルテット/第10話』

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ありがとう、カルテット・ドーナツホール。そして一生ついて行きます坂元裕二先生!という締めのような言葉で始めさせていただきます。いやー。いい最終回でした。見事にゴールテープを切ってくれました。この生き辛い世界でご飯を食べて息をしてサバイブするどこかのだれかや、不器用な夢追い人の背中をささやかに押してあげるような、そんな作品に不器用な人間の一員である自分は出会えて嬉しい。数字としての結果は大きくは振るわなかったかもしれないけれど、このドラマの意義を測るものは決してそんなものではないでしょう。お皿に乗った唐揚げの脇に添えられたパセリのようにこのドラマは在った。大きな注目はされないかもしれない、嫌いな人もいるかもしれない。でも確かにそこに在った。もう一つ意味を加えるなら、ドラマ「カルテット」は前述した「持たざるものたち」=「唐揚げに添えられたパセリ」の「ここにいるよ」という小さな声を掬い上げてみせたのだ。そんなところにこそ、このドラマの意義のようなものはあるのではないだろうか。と、めちゃくちゃまとめにかかってますがまだまだ書きたいこともあるので最後だしもう少し書きますね。最後だしね。

 

最終話である第10話を貫いたテーマは「逆転」だろうか。冒頭描かれるのは、一人で暮らす真紀さんと新たなメンバーを迎えるカルテット。カルテットという新たなパーティーを作っていく流れが最終話から第1話に「逆転」する。第1話で出会って数分の女子大生とキスしていた家森さんは犬にキスされる側に「逆転」しているし、別府さんと家森さんの交わす名前のやりとりも『諭高さん』『司くん』と姓名が「逆転」している。当然すずめちゃんも『二度寝』から『徹夜』に生活リズムが逆転しているし、四人が演奏していた『レストラン・ノクターン』は『割烹ダイニング・のくた庵』に逆転している。真紀の代わりに現れたバイオリニストの絵茉の腹式呼吸から発する声は真紀と「逆転」して大きな声である。他にも別府さんが捲るのが袖から裾に逆転していたり、真紀さんの家のドアに書かれた落書きの文字の大きさのバランスとか…。全体に散りばめられた「逆転」の点が振動して大きな渦になる。

 

そして、開始15分で失われたメンバーである真紀を取り戻すべくカルテットの面々は別荘を飛び出す。一人で部屋にいる真紀さんを、嫌がらせでドアを叩く音、鳴らされるチャイムの音、そして壊れた洗濯機の音という雑音が包む。そんな雑音から逃れようとイヤホンで周りの音を遮断する真紀さんの耳に飛び込んでくる懐かしい音。そして目に映るのは靴下に空いた穴。穴。あな!ドーナツホールだ!外に駆け出して転ぶ真紀さん。これも今までの真紀さん以外の3人が転ぶこととの「逆転」ですね。

そして再結成するカルテット。でしたが三人が「音楽で生きる」という道を捨て、自分の中のキリギリスを殺したことに気づく真紀さん。第1話で席を立つきっかけとなった『コーン茶』が『コンサート』に飛躍する。周りの誰かから嘘つきと、偽物と疑われるなら、それだって利用してやろうじゃないかという発想の「逆転」!だって「カルテット・ドーナツホール」なんだから!

 

坂元裕二作品では重要な要素としてほぼ毎作品登場する手紙ですが、今回は意外な形で登場しました。差出人はそれこそ「誰でもない人」で、彼女もまた不器用な夢追い人"であった"人なのだ。彼女から4人に疑問が投げかけられる。

世の中に優れた音楽が生まれる過程でできた、余計なもの。

みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。

価値もない、意味もない、必要ない、記憶にも残らない。

私は不思議に思いました。

この人たち、煙のくせに何のためにやってるんだろう。早く辞めてしまえばいいのに。

私は5年前に奏者をやめました。

自分が煙であることにいち早く気付いたからです。

自分のしていることの愚かさに気づき、すっぱりと辞めました。正しい選択でした。

 

どうして辞めないんですか?

煙の分際で続けることに一体何の意味があるんだろう。

教えてください。価値はあると思いますか?意味はあると思いますか?将来はあると思いますか?

なぜ続けるんですか?なぜ辞めないんですか?

なぜ?

おそらくこの疑問に対する回答はコンサート中に投げ込まれた缶とともに蘇る4人の出会いのシーンにある。

「音楽は一生やっていきたい感じですか?」

「今は気晴らしみたいなところあって

「ずっと自分でやってたので、チェロでプロになろうとか考えたことなかったかな…。」

20年以上弦やってて、結局好きになれなかったんですよね」

「現実問題、音楽じゃ食べていけませんしね」

 

「あ、でも。外で弾いてて、あ。今日楽しいかもって思った時に立ち止まってくれる人がいると、やった!って思います。」

「その人に何か

「届いた!」

「自分の気持ちが音になって飛んでいけー!って。」

才能はないかもしれない。技術だって一流じゃないかもしれない。それでも今自分が鳴らしている音が憧れたあの音に近づいているかもしれないとか、知らないどこかの誰かに届くかもしれないとか、夢や憧れを追うことの原動力ってきっとこういうことじゃないだろうか。もちろんみんなに届くわけじゃない。この音が届く人は少ないかもしれない。でも確かに、何人かにはきっと届いているはず。誰かは批判するだろうし、もしかしたらそれでもいつかは夢を諦める日が来るかもしれない。でも決して無駄じゃない。書いていて思ったけど、これってまさに又吉直樹の「火花」じゃないですか。劇中の台詞を引用すると、

でもな、淘汰された奴の存在って、絶対無駄じゃないねん。

やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらんかった方がよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。

一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。

だから、一回でも舞台に立ったやつは絶対に必要やってん。

あの帽子を被った人がもしも手紙の主なら彼女にも音は届いているはずだし、彼女の存在だって無駄ではないはず。煙突から出る煙では誰かの胸に火を灯すことは難しいと他人は言うだろう。でもグレーな煙はどこにだって飛んでいけるし、どこまでも広がってゆく。その証拠にラストで4人は別荘から飛び出していく。別々の違う道ではなくて、一本の同じ道*1を同じ車で走る。眼前には熱海の海*2が広がっている。

そう人生は長い 世界は広い

自由を手にした僕らはグレー

坂元裕二が導く結末には"平行線を歩く二人"が多くあった。「カルテット」が辿り着いた結末は少し違うように思う。砂浜を右往左往する4人のように、好きな人と好きなように何処へだって歩ける。そんな清々しいほどの自由じゃないだろうか。

 









 

*1:切られなかった春雨のような

*2:これも「火花」だ!