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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

悲しくてやりきれない - 『この世界の片隅に』

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ただただ素晴らしい。いや、それに尽きる。尽きるのだけど。

映画の中に登場すると、どうしようもなく好き度があがってしまう要素というものがいくつか有る。「この世界の片隅に」にはそれがことごとく詰まっていた。だらだらと書いていても取り留めなくなってしまうので、そのひとつひとつにフォーカスして。

 

「食と生」

この作品においては、食に関する描写は切っても切り離せない重要な要素だ。戦時中においては限られた配給で生活をやりくりしていかなければならない。戦争=飢えの苦しみや辛さ、というような事実はもちろんあっただろう。その苦しみにフォーカスするのも別に間違いではない。ただ、人間の「美味しいものを出来るだけたくさん食べたい」とか、はたまた「食費を抑えたい」みたいな気持ちって、とても根源的なものだ。それが戦時中だからといって失われているわけじゃない。なにも当時の人たちは飢えを甘んじて受け入れていたわけではなくて、真っ当な人間の欲求を「工夫」によって満たしていたのだ。

特に「ごはんを炊く」という運動はもう何とも言えないほどに人間くさい。話はそれるけど、橋口亮輔作品内(特に「ぐるりのこと」)に登場する食事描写はことごとく好きだ。今作でも何度か「ごはんを炊く」という、それだけのシーンがあるのだけど、その中でも最後のそのシーンにはとんでもなく感情をかき乱された。米を研いで、釜を火にかける、ふたをあけると湯気に包まれる。ああ。生きてる。生きることって、食べることってなんて尊いんだろう。

それ以外にも、衣食住の「衣」である着物を仕立てるシーンも最高だった。すずちゃんの想像はいつだって輝いている。

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「想像力による救い」

すずちゃんは絵を描く。お兄ちゃん(鬼いちゃん)の冒険譚を、水原さんの嫌いな海を、広島の町を、食べたことのないアイスクリームを、海に浮かぶ軍艦を、そして好きな人の顔を、その右手で描く。自らも危険にさらされた空襲の焼夷弾には鮮やかな色をつける。(「この空の花 長岡花火物語」を思い出してグッときた)

ここにないものを描き出し、目を背けたいものには色をつける。これって映画や漫画にしかできないことだ。そうやって絵を描き、想像力でもって悲しくてやりきれない世界を生きていくことがすずちゃんの希望だった。だったのだ。だったのに。

しかし、最後にはすずちゃんのその「右手」によって水原さんが、りんさんが、おにいちゃんが、そしてすずちゃん自身が救われていく。悲しくてやりきれない。やりきれないけど、人はまた想像し、筆を取る。

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「人生の選択」

自らの手で、何かを選び取る。そんな映画が好きだ。それが「何かになること」であったり、「何かを諦めること」であったり、それはどちらでも同じだと思うのだけど、そんな瞬間はとても美しい。

すずちゃんは時代に流されてお嫁に行った訳だけど自分の選択で進んでいく。小姑の徑子さんにどれだけいびられようが、戦争にどれだけ脅かされようが、それでも自分で生きる場所を選んでゆく。その姿は、やっぱり美しい。まさに、この世界の片隅に自分の生きる場所を、自分の手で作り出していくのだ。ああ。何度目かわからないが、なんて美しいのだろう。風に乗り、飛んできた綿毛がその地に種を宿し、根を張る。またそこに思いがけず、飛んできた綿毛が種を宿すのだ。

 

 

今まで「戦時中の人」とひとくくりにされて、常に不幸だったように思われてきた彼も彼女もあの子も、当たり前にその時の幸せを噛み締めて、間違いなく「生きて」いたはずなのだ。なんでそんなことに、今まで想像力を働かせなかったのだろう。

この映画を語るときに、映画以外のことを語るレビューなどをよく目にする。そんなことは関係なくて、これはやはり一人の「浦野すず」または「北條すず」という女性の生活を描いた作品なのだ。そしてそれには、「のん」いう女優の声が必要不可欠だったというただそれだけのことなのだ。ただそれはどうしようもない奇跡で、ただただ涙を流すほかないというそれだけのことなのだ。

ああ、またすずちゃんに会いたいな。自分はすずちゃんの選んだ世界の片隅に生きているんだな。