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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

それでも生きてゆく - 『怒り』

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映画「怒り」について。

感想、というよりはただまとめておきたいだけ。という気持ち。とっちらかってると思う。すいません。あとネタバレ全開の部分もあるので、見てない方は気をつけて。

 

観終わってから、どこか晴れないどんよりした気持ちに襲われている。それはこの作品の重さによるところが大きいと思うのだけど、それ以外にも何か煮え切らない部分があるような気がしてきた。


観終わったその日にまとめた感想では自分はこんなことを言っている。

三つの地をまとめ上げた脚本も、それに応えた役者陣の演技も言うことがない。でも何だろうね。
すげー嫌なこと言うと、このお話とこの役者陣であれば一定のクオリティは保証されてしまうというか。そりゃ良いよなみたいな。何か特別な「映画である意味」みたいなものは今ひとつ見出せなかった。
例えば、綾野剛が歩きながら弁当の持ち方を気にするところとか、ああいうのすごく良いなぁと思うのだけど(もっとさりげなくてもよかった)、感情や背景を言葉にしてしまわずにもっと突き放しても良いのに、とか。

 

役者陣の素晴らしい演技も、重厚な音楽があっても、なんだろう。不思議と「映画化」ではなく「映像化」という言葉が浮かんでしまったのです。
これは自分の観る目がないのか、それともないものねだりなのか。人物たちの些細な表情や動きで人間の奥行きは現れているのだけど、例えばその人物たちの運動に何か映画的な意味が内包されているかとか、纏う衣装の変化とか位置取りとかに意味が込められているかとか、そういうことを考えてしまう。
別にだからこの映画はダメとかそんなことは思わないし、140分という尺も特段長いとは思わないのだけどね。

 

そんなことを考えているうちにこの自分のもやもやの原因がようやくわかってきたような気がする。多分映画が提示する「答え」についてだ。
自分は原作を読んでいなかったので、映画がにあたっての改編があったことは知らなかったのだけど、鑑賞後に原作について調べてみると沖縄編のラストに大きな改編がなされていることを知った。

原作では、田中を刺した辰哉を守るために、泉は葛藤の末自分が被害にあった強姦事件のことを明るみにする。
映画では、辰哉が逮捕された後の泉の行動は描かれず、沖縄の海に向かって慟哭するシーンで幕を閉じる。それは絶望とも決意ともとれるような、ただ紛れも無い「怒り」に満ちた叫びだった。
明確な着地点を描かず、観客に判断を委ねる結末にするのはわかる。この映画は見終わった後に考える意味がある。


上にも述べた感想の中で、「感情や背景を言葉にしてしまわずにもっと突き放しても良いのに」と自分は言っていたけど、ここばかりはどうだろう。
これは一個人の勝手な感想にすぎないけれど、この作品が投げかけてくる「誰かをを信じること、そして自分を信じること」ということに対して、自分は「それでも誰かを信じる」という結末を用意した原作を支持したい。
泉は他人を信じすぎたことによる不条理な傷を受けてしまった。もう誰も信じないという決断もしただろう。それでも、それでも誰かを信じたい。だってなにも信じなくなってしまったら、それこそ田中じゃないか。
それを明確に描くことって、もしかしたら安易に見えるのかもしれない。でも映画だもん。そういう希望が見たいじゃないですか。傷ついて、もがいて、苦しんで、それでも人を信じたい。だって人間だもん。それってだめかな?

 

 

この映画の劇伴を繰り返し聴いている。
特に、「M18 真実」からエンディングである「M21 許し」までを気付くとリピートしている。
きっとそれはこの音楽が、絶望も怒りの末に希望を表現しているからなのだと思う。

 

とにかく吐き出さないとやっていられなかった。これを抱えたままでいられなかった。
とにかく観ることに意味のある映画だと思います。別に映画についてNOを突きつけてるわけじゃなく、自分の考えとして、という話でした。