anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

間に合わなかった、そのあと - 『海よりもまだ深く』

f:id:moire_xxx:20160526233723p:plain

 

是枝裕和監督の映画が1年という短いスパンで見れる。なんと幸せなことだろう。そしてこの「海よりもまだ深く」他の誰にも撮ることのできない紛れもない是枝監督の映画であった。

良多という人間を阿部寛が演じる是枝作品はこの作品を含めて3作ある。「歩いても歩いても」「ゴーイングマイホーム」そして「海よりもまだ深く」。「歩いても歩いても」に至っては良多の母を演じるのが樹木希林というところまで共通している。なので、見るまでは「歩いても歩いても」に対しての2016年からのアプローチ的な映画なのかと思っていたけれど、今作は「歩いても歩いても」であり「誰も知らない」であり「奇跡」であり「そして父になる」でもあった。とどのつまりこれは是枝裕和という一人の人間の映画であると考えざるを得ない。
 
 
脚本、位置の構図、演技はもうそりゃ是枝さんなんでもう言うことなんてない。(ほとんど。それについてはまた後で)
「台風の夜に、壊れかけの家族が冷凍したカレーを溶かして、カレーうどんを食べる」という行為の言葉では表せない美しさよ。
「台風の夜に、壊れかけの家族が雨の中で飛んで行った宝くじを拾い集める」という行為の言葉では表せない切なさよ。
そう。先に述べた「溶かす」という行為がこの映画の中に点在している。
カルピスのシャーベット、インスタントコーヒー、カレー、そして墨汁。
「溶かす」ということは、それまで凝り固まっていたものをすこしずつ、すこしずつ、動かしていくような働きがある。ということは、台風23号も家族の中にある何かを、あるいは良多の中にある何かを「溶かす」役割があるのだろう。この作品の英題が「After the Storm」というのもここに繋がるような気がする。特に是枝さんの抜かりのないところはこの家族にとってのある種の奇跡のような存在であった「台風」が別視点で見れば命を奪うような災害であるという側面をさりげなく、だけどきっちりと描いているところ。この部分は「奇跡」における桜島の噴火にも通じる。
 
 
「歩いても歩いても」が「間に合わなかった」映画なのだとしたらこの「海よりもまだ深く」は「間に合わなかった、そのあとの道」の映画であると思う。
劇中で繰り返される、「こんなはずじゃなかった」とか「なりたい大人になれなかった」ということば。生きていく中で繰り返される選択の中で、きっと誰だって大なり小なりの失敗がある。「あーなんであのときこうしなかったんだろう」って思うことがある。それでも勿論その選択の場に戻ることなんて出来なくて、間違った道を進むしかない。この道は正しかったんだって思えるときまで。『ロストマン/BUMP OF CHICKEN』ですよ。
だから、最後に良多が何に気付いて、元妻と息子を送ったあとどこに進むのか、そのときに3人の間にあるものが何を意味するのか、とかを考えるとこれは「歩いても歩いても」の単なる焼き増しなんかではないと思うのですよ。
 
 
ひっかかったのはひとつだけ。予告で危惧していた所謂「良い台詞らしい良い台詞」かな。
勿論小説家である良多が小説のネタのために言葉のメモを取るっていう行為だったり、樹木希林さんの言ったあとの戯けたような演技でそれなりに回収はされるのだけど、それがなんだか台詞を言わせるための免罪符のように見えてしまったのが正直なところ。そんなパンチライン的なフレーズがなくても十分すぎるほど言わんとしてることは伝わるのになあ。寧ろ是枝さんのパンチラインって「マックじゃないよ。モス。モス。」とか「お、人生ゲームやってんのか。どっちが勝ってるの?」とかそういうところだと思うのだけど。
 
同じことが主題歌にも言えて、ハナレグミの唄う「深呼吸」は紛れもなく良い曲なのだけど、耳馴染みが良いだけに、映画のメッセージが歌詞の言葉として入ってきてしまって勿体無く思えた。言葉にならない映画的な良さを言葉にしてしまったら、その瞬間にその想いの型が決まってしまうように思えてしまう。なんだか捻くれもんですいません。