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神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

世界は多分 他者の総和 - 『恋人たち』

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橋口亮輔監督作「恋人たち」を見た。

2008年公開の前作「ぐるりのこと」には心底打ちのめされて、揺るぎないベスト邦画として不動の(おそらく)地位を確立したのだけど、その橋口監督の7年ぶりの新作が遂に公開されるというのだから、これは何としても劇場に行くしかないでしょう。ちなみに「ぐるりのこと」以前の「ハッシュ!」「渚のシンドバッド」「二十歳の微熱」も見たいと思いながらも、地方のTSUTAYAには在庫もない。何とかしてほしい。

 

東京の都心部に張り巡らされた高速道路の下。アツシ(篠原篤)が橋梁のコンクリートに耳をぴたりとつけ、ハンマーでノックしている。機械よりも正確な聴力を持つ彼の仕事は、ノック音の響きで破損場所を探し当てる橋梁点検。健康保険料も支払えないほどに貧しい生活を送る彼には、数年前に愛する妻を通り魔殺人事件で失ったという、つらく重い過去がある。
郊外に住む瞳子(成嶋瞳子)は自分に関心をもたない夫と、そりが合わない姑と3人で暮らしている。同じ弁当屋に勤めるパート仲間と共に皇族の追っかけをすることと、小説や漫画を描いたりすることだけが楽しみだ。ある日パート先にやってくる取引先の男とひょんなことから親しくなり、瞳子の平凡な毎日は刺激に満ちたものとなる。
企業を対象にした弁護士事務所に務める四ノ宮(池田良)は、エリートである自分が他者より優れていることに疑いをもたない完璧主義者。高級マンションで一緒に暮らす同性の恋人への態度も、常に威圧的だ。そんな彼には学生時代から秘かに想いを寄せている男友だちがいるが、ささいな出来事がきっかけで誤解を招いてしまう。
それぞれの“恋人たち”は、失ってはじめて「当たり前の日々」のかけがえのなさに気づいていく―― 。

 観終えて、劇場を出てからとても感想を言語化することできなくて時間がたってしまったのだけど、どうにもこの映画についてまとめないと別の映画を見ることすらままならないのでつらつらと観て思ったことについてまとめたい。

前作「ぐるりのこと」が描き出したのは"他者とのコミュニケートとその限界"であり(と思っている)、それをある夫婦の10年を通して描くというものであった。僕が何に打ちのめされたのかというと、とある出来事をきっかけに夫婦間の、或いは別個に生きる人間としてのコミュニケートの限界に達したふたりが、ささやかながらもその先を見出していくその過程と人物・会話描写の妙とその美しさだと思う。

今作「恋人たち」はテーマは全く同じといってもいい。やはり"他者とのコミュニケートとその限界"であるのだけど、ストーリーを見てわかるとおり、今作の人物たちは最も近い距離にいる、最もコミュニケートするであろうパートナーを失っている、もしくはいるのに関係を築けていない、もしくはまだ見つけていない状態なのである。

だからこそ、ここに登場する人物たちは、飲み込めない自分の思いを抱えて誰かと繋がろうと(コミュニケートしようと)するのだけど、一向に繋がることはできない。目の前にいる人と会話をしているはずなのに、会話ができていないのだ。それが見ていてとてもいたたまれないのだけど、そんなシーンを見てあることを思い出した。

こんなところに書くには憚れることなのだけど、感じてしまったことなので仕方ない。僕には無意識にしてしまうある癖がある。それは誰かと会話をするとき、ありふれた流れで、”何かを思い出せない”下りがあるでしょう?人の名前でもふと流れた音楽の曲名でも「あーなんだっけ?あれあれ!」ってなるそれです。そのときに、なぜか答えが頭の中に浮かんでいるのにわからないふりをしてしまうのです。自分でも何の意味があってこんなことをしているのか、そのときに自覚なんてないのだけど。「恋人たち」を見終えて、このことをふと思い出して考えてみると、自分のこの行動の意味は”確実に誰かとコミュニケートしている時間を得る”ということなのではないだろうかという結論になる。お互いに何か言葉を発していても、本当に話ができているか不安に思うとき、何か同じことを一緒に考えることで、今自分はこの人と会話しているんだという感覚になっているのではないだろうか。それが正しいコミュニケートの形かどうかは正直わからないのだけど、でも劇中の人物たちとそう変わらないかなとも思う。無意識にこんな術に頼っている時点で誰かとのコミュニケートを半ば諦めているとも捉えられる。(本当に何かを思い出せていない時も、もちろんあります。今後だれかと話すときに支障が出そうなので、できれば忘れてほしい…)

 

話を劇中に戻す。登場人物のひとりのアツシの表情に寄るシーンがいくつかある。おそらくそのシーンはどれもアツシがだれかとコミュニケートしようとしている瞬間だろう。前述したとおり、その大半は聞く相手のいない独白になっていたり、聞く相手がいても耳を貸さなかったりするのだけど、終盤のある場面でだけは確かにその思いが誰かに届くのだ。その際のとってつけたようなアップシーンには賛否あるらしく、自分も最初に見たときにはとても違和感を感じたのだけど、アツシがだれかとコミュニケートできた瞬間であると考えたらそれまでのシーンとの差を作るのも納得できるかもしれない。

 

とっちらかった話をまとめるのに最適な答えを見つけた。

それは吉野弘氏の「生命は」という詩である。

生命は/吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

他者の総和である世界はどうしようもなく生きづらい。けど、いつだって他者に傷つけられて、他者に救われるのだ。アツシがした決心はこの他者の総和の世界で生きていくことかもしれない。だから耳を澄まさなければいけない。壊れきった世界でわずかに生きている部分を探すためにも。

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