「普通」という状態に等しさなどない。誰かの「普通」は誰かから見た「普通でない」状態になり得る。
『そこのみにて光輝く』で描かれる容赦のない底辺描写はきっと見る人にとって普通でない光景として映る。
風ひとつ吹けば倒れそうな小屋のような家や、性欲だけは消えない脳梗塞の父親や、サラダ油をご飯の上からぶっかけて炒めたチャーハンをフライパンから直接食べることは普通だろうか。それとも。
でも確かにこの世にはそうした景色が存在するのだろう。
では、その当事者達からしたらそれはどう映るのか。
この映画からはひしひしと「普通」「普通でない」という境界が如何に曖昧であるか、意味のないことか、ということを感じる。
この映画、始まって最初に映されるのはパンツ一丁の綾野剛である。艶やかであるが、その姿はさながら死体である。まさに「生きた屍」。
タイトル中の「輝く」という言葉が「生きる」という言葉と同じ意味を持つとすると、綾野剛演じる達夫は死んだ状態で登場する。アップで映される、パチンコをする達夫の眼には感情がまったくない。しかし、そこで出会った菅田将暉演じる拓児と池脇千鶴演じるその姉・千夏によって達夫が「生きていく」のだ。
その過程は実際に見ることをおすすめします。
とても丁寧で何一つ無駄のない演出、撮影、演技本当に素晴らしいです。
ゆえにこの世界がとても架空のものとは思えなくなってしまい、三人が今も北海道の海辺に生きているのではないかと。そう考えてしまう。
ひとつだけ。
上で述べた通り、僕は「光輝く」という言葉を「生きる」ということだと定義した。
では”そこ”とは。
”そこのみ”と言うととても限定的であるように感じる。そこでしか輝くことができない。生きることができない。劇中の社会的底辺ということだろう。
ただしこの言葉は裏を返せば、”そこであれば”輝くことができるのだ。
だれでもきっとどこかに生きることのできる、輝ける"そこ"があるのだろう。
人はやっと見つけたその場所を奪われないために、もがいて苦しんで笑うのじゃないか。足のつかない海で手を取り合いキスをするように。
それが社会的底辺であろうと、普通でない場所だろうと、"底"であろうと。
達夫と拓児の出会いはパチンコ屋で借りたライター(火)であった。終盤のあるシーンで拓児は何もかも奪われてしまった状況でこう言う。
「ライターはあっから。」
"そこ"にも火は灯るのだろう。