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anomeno

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

ここ最近のこと

その他 movie

 

ここ最近あったこと、として外せないことはやはりフジロック

行ってきました。今年も前夜祭から計4日間。

そのことに関してはまた別に書きたいと思います。

あれだけ偉そうに不満を垂れておきながら、果たして何を感じたのか。もう答えは明らかだけれども、それはまたこんど。

 

 

 

 

 

ここ最近。つい昨日、今日のこと。

我が新潟は長岡が誇る長岡花火が行われた。日本三大花火の一つとして挙げられるほど大規模かつ有名である。

 生まれてこのかた、この長岡を出たことのない僕は毎年8月2日、3日に打ち上げられる花火をどうしたって観なければならない。おそらく全く見なかったということはないように思う。

もう自分でも気づいているけれど、歳を重ねるたびに何故かこの花火を見ると泣きそうになってしまう。

そして今年、否応なく気付いてしまった。なぜ花火が泣けるのか。

この表現の多義性、青春感、ひいてはポップパンク感(あくまで主観)から使うに憚れるが、もう最早これしか当てはまる言葉がない。

そう、「エモい」のだ。

何万人の人が空を見上げて、同じ花火を見る。これをエモいと言わずしてなにがエモいんだ!

考えてみると、最近は皆で見る同じものってどうにも「映されるもの」がほとんどのような気がする。そうでなければ、演劇、ライブなどなどかな…。

そこに居る個の集団が一つの現象に感動する。しかもその場所は空なんだよ?ちょーうロマンティックだよね。

それが当たり前ではないということを思うと、もう心が動かざるを得ない。

 

もちろん、そこにいなくたって、写真や映像をとおして花火を想うことだって一緒。ここいない誰かがここの空に浮かんでいるであろう花火を想ってるなんて、こんな素敵なことはない。

おっと、エモさが過ぎた。ぜひ一度見て欲しいです。

故郷が誇らしい。

 

 

 

 

 

 

 

8月1日。ファーストデイということで、「劇場版 HERO」と細田守監督作品「バケモノの子」を観た。

本当は「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」とか見たかったけどさ…。地方ではやる気配ないしさ…。

 

 

最初に見た「HERO」

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ドラマシリーズから好きな作品ではあったし2007年の第1弾劇場編も好きではあったのだけど、どこかで「まあドラマ映画だしな」という気持ちもあったのがほんとうのところ。

蓋を開けてみれば、未だに余韻に浸っているというザマ。見事にやられた。

 

大まかな構造に関しては、前回の劇場版と同様。久利生の担当していた交通事故というありふれた案件が「治外法権」の絡んだ国際問題に発展していき真相を阻む壁となる。といったところ。

その辺りの展開に関しては特筆するところがないというか、良くも悪くもこれまでどおり。なのだけど、そこに松たか子演じる雨宮の復活という要素が加わることによって2007年からの時間の経過という言わばカタルシスを感じることになる。

その重要なアイテムとなるのが、HEROにおける木村拓哉の象徴。茶色のダウンジャケットである。

 

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思い出してみると、シーズン1、特別編、劇場版第1弾のなかではこの茶色のダウンを着た久利生が浮かぶが、不思議とシーズン2ではそのイメージがないように感じる。

季節感ということもあるのかもしれないけれど、今作が公開されてるのはうだるような暑さの8月であるのに対して、劇中は冬なのである。そして久利生は序盤しきりに「さみぃ」と呟く。そして、その後の雨宮との再会。

こうなると、雨宮とダウンは共存関係にあると考えてしまう。

 

しかし、この劇中で久利生がこのダウンを着るシーンは1度だけ。

ただこの一度で、雨宮のなかに秘めてい久利生に対する想いが確かに蘇り、クライマックス。その想いにどう折り合いをつけるのか。そのとき二人がどんな表情をしているのか。ぜひそれを劇場で観て欲しい。言わずもがな涙が出ました。

 

 

 

 

 

続けて「バケモノの子」

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これに関してはまだまだ消化不良というか、とても多い情報量や作り込まれた設定を上手く噛み砕けていないと思う。

ぱっと一回観ただけでは、少しもやもやしたものが残る印象だった。

9割おもしろいと感じていても、大事な残り1割に納得がいかないと途端に、面白く感じていた9割さえ怪しくなってしまうということが映画ってよくあると思う。

 

今回でいうと、バケモノとして主人公・九太と親代わりの熊轍が修行を通して本物の親子のような関係を育んでいく前半部分はすごく良くて引き込まれたのだけど、後半からの再び人間界と交わる場面で登場する楓という存在に納得がいかなかった。

孤独である九太、および蓮を支える存在にしても、もうそれは熊轍および渋天街の人たちで良くない?ってこととか、最後のあの場には本当に居るべき?とかを観終わったときには考えていた。

でも、今思うと楓は蓮が人間として成長するためには必要不可欠な存在であることは確かだし、人として生きながらも少なからず闇を抱える存在としても機能しているのかと考えるとやっぱり必要だったのかなあとも思う。

 

と、まだ自分の中でもまとまっていないので近いうちにもう一度……行けるかな?なんとかして行きたいな…。

 

 

 

 

 

 

 

いつも思うけど、毎回書き始めてるのは22時頃なのに気づいたらこんな時間になってしまう。