「海街diary」を見た。
二週間程経っても余韻さめやらぬ、というかあの四姉妹のいる風景(映像ではなく)が頭から心から離れない。住み着いてしまったかのよう。
今も鎌倉にはあの四人が暮らしていて、朝になれば極楽寺駅へと走っているのではないか。そう思うとなんだか嬉しいような切ないような。嗚呼。
大きな起伏のない進行、緩やかに・確かに流れていく時間の描写はこれまでの是枝作品(『空気人形』『奇跡』『ゴーイングマイホーム』『そして父になる』)と同様で、それこそ波のようにゆったりと、でも引いてみれば大きなうねりのなかにいるような感覚。今作ではより顕著だった。
映画を観終わった後に原作マンガを読んだのだけど、こちらは割としっかりと展開や盛り上がりどころがあっていわゆるドラマ性が強いように感じたのだけどもしかしたら意図してその部分を切り捨てたのかもしれない。それ以外はセリフから人物のディティールまでしっかりと原作から受け継いで映像化に生かされていて、マンガの中の人物が動き出すようだった。素晴らしい。
さて、この『海街diary』の主たるテーマとは何なのか。
圧倒的実力をもった四人の女優が主役のほのぼの物語なのか。その側面も確かにあると思う。でも真ん中にあるのは「死」「時間」という不可避の存在だと自分は感じた。ただそれは具体的に、〜とはなにそれであり〜という感じで触れられたり明言されるわけではなく、逆に徹底してピントを外して描くことでより強いメッセージになっていた。
劇中では三度、法要の場面がある。
正確には序盤と終盤に葬式、中盤に法事なのだけど。
また、綾瀬はるか演じる長女・幸は病院で終末期医療に携わっている。
これだけ、死に触れる場面があってもシリアスにはならずにそれこそちゃんとほのぼのとしている。何故か。
それはきっと「不在」「空白」がしっかりと残っているからではないか。
僕が未だに信じてやまないBUMP OF CHICKENの藤原基央は「大切な何かが失くなったとき、そこに残るのは無ではなくからっぽだ」と言う。
この映画でも同様に、居なくなってしまった誰かを”もう居ないもの”とするのではなくて、"その人が居た場所"を描いている。それによって今生きている人の、ほのぼのとした生活のなかにしっかりと居ない人の”居場所”ができるのだと思う。それはごく当たり前のことなのかもしれないけど。
その居場所として具体的なものが劇中にいくつも点在している。
例えば「梅酒」
四姉妹の住む家の庭には梅の木がある。祖母が生きていた頃から毎年梅を収穫して梅酒を作っている。
四姉妹をおいて家を出た母(大竹しのぶ)に対して幸はどこか許せないながらも別れの場面で祖母(大竹しのぶにとっては母)が漬けて今まで残っていた十年ものの梅酒ともう一つ、その年にすずを含む四姉妹で漬けた梅酒を渡す。
過去と現在。今は居ない祖母と今はいるすずの居場所が梅酒に現れる。
例えば「しらすトースト」
父が仙台ですずに作ってくれた、しらすトーストは鎌倉で生まれたもので、今もそこに在り続けている。
同じように、きっと「あじの南蛮漬け」も「アジフライ」もきっとそこに在り続ける。
それは間違いなく、今はいない誰かが居た証になるんだろう。
劇中、四姉妹は鎌倉の浜辺を歩く。
少し先を歩く長女・幸と四女・すず、その後ろを歩く次女・佳乃と三女・千佳。
「小さいな〜すずの足」と後ろを歩く二人は足跡を合わせて言う。
なるほど、と思った。
父との記憶がほとんどない千佳は、すずから話を聞くことで自分の父親がどんな人物だったのかを知る。
何より幸は、自分にはなかった「子供でいられる時間」をすずに与える。もしかしたらそれによって幸は自分の過去を取り戻すのかもしれない。
そこにある自分のとは違う大きさの足跡を辿るということは、自分の足跡を辿ることとつながっているのかもしれないな。
間違いない傑作だと思います。
迷っているなら是非。